日本橋両国橋界隈、江戸時代の古地図、古い地名の由来、移り変わり情報満載。
江戸時代の古地図集

江戸時代以前の地図
江戸時代初期の地図
寛永9(1632年) 江戸時代=両国橋界隈の移り変り No 1
この頃は寺が多く存在していた。この地図の西側(馬喰町)は寺町で15の寺が在ります。大川を利用し水路から
材木を運び込んでいた。屋敷の数もまだ少なかった。
明暦3(1657年) 江戸時代=両国橋界隈の移り変り  No 2
堀が整備され、寺が移動して幕府の米蔵が出来ている。町屋が出来つつ有り、この後に町名が起立していく。
延宝(1673〜1680年) 江戸時代=両国橋界隈の移り変り  No 3
西本願寺が明暦の大火で消失、幕府は再建を認めず。以後寺は築地に移転、現在の築地本願寺となる。
こと跡地に松平越前守の大名屋敷となる。久松町の武家屋敷が破産し町屋(庶民の土地)となる。
幕府の米蔵に「薬研堀」が完成している。材木蔵は縮小され、この頃から木場へ移っていく。
貞亨(1684〜1687年) 江戸時代=両国橋界隈の移り変り  No 4
この頃より橘町と久松町が起立。天和元年(1681年)両国橋流失で仮橋が完成、元禄9年(1696年)まで使う。
元禄10年に谷之御蔵が火災で焼失、以後築地に移転した。

元禄(1688〜1703年) 江戸時代=両国橋界隈の移り変り  No 5
米蔵が移転後、大名屋敷・武家屋敷・町屋が出来た。この頃、吉川町・若松町・米沢町が起立。大名屋敷も多く
賑やかな町並みに変貌する。 同朋町=幕府の家人のうち「法体」つまり頭を丸坊主に剃って勤務する役職の
人達のが主に暮らした町です。寺が減る事で町屋に変わっていきます。
宝永(1704〜1710年) 江戸時代=両国橋界隈の移り変り  No 6
この頃より大名屋敷・武家屋敷が減りつつあり。この後、薬研堀は埋められて町屋になっていく。
明和(1771年) 江戸時代=両国橋界隈の移り変り  No 7
この頃、将軍専用桟橋の「御召場」が両国橋の上流と下流に出来る。将軍御成りの時は両国広小路のよしず張りの
見世物小屋などの全てを片付けられていた。

文久(1861年) 江戸時代=両国橋界隈の移り変り  No8
日本橋両国界隈の 江戸時代後期 の地図
日本橋両国界隈の 昭和初期&現在 の地図