七味発祥の地日本橋両国界隈江戸の歴史。江戸時代の古地図、古い地名の由来、両国花火、明暦の大火など情報満載。

* 江戸時代の古地図 (日本橋北側 両国界隈)
明暦3年(1657年)=この地図は正月に発行されたが、18日に明暦の大火で江戸全域と江戸城本丸・
天守閣までも焼失。この火災後に区画整理され、地図は大幅に変わる事になった。
 
 (この地図は発行してわずか半月で使えなくなった、貴重なものです)

明暦の大火では、火を逃れ北に向かうが浅草門が開かず。ここで2万5千人の犠牲者を出し、この教訓で
後に両国広小路が出来た。
日本橋北側には15の寺(☆印)が在りますが、大火後再建は認められず、その後外堀の外に移された。
また、
人形町東側に堀を持つ「吉原」も在りますが、これも区画整理の対象で浅草の奥に移転した。

当時の輸送手段は船で、「両国」の辺りは浅草川(隅田川)を利用した水路が多く物流の拠点でした。
浅草・蔵前・両国一帯は倉庫群となっていた。この頃、黒く塗られた区画は分譲前の土地が多く見られる。
外敵から城を守る為に
千住大橋より下流には
橋を架けさせなかった
   筋違門
現在の万世橋
浅草門
現在の浅草橋
    ↓

浅草馬場
幕府米蔵
  ↓
牢屋
すでに存在 
舟の水路
が多い
吉原
日本橋→

元禄6年(1693年)=大きな堀を持つ幕府の米蔵「矢ノ御蔵」が出来ました。水路・隅田川も整備された。
「両国橋」は万治2年(1659年)架けられが、天和元年(1681年)12月の水害で流失、元禄9年(1696年)
完成したが、この地図の橋は「仮橋」で、浜町寄りに在った。
 
☆印=本所「吉良邸」の有ったところ、地図には名前は記される事は無かった。
  大石内蔵助ら47士は仇討ち後、両国橋手前で左折、外堀に沿って永代橋(1698年完成で地図には
  まだ無い)を渡り泉岳寺へ約3時間の行列、旗本・大名・役人は黙認、おとがめは無かった。

吉原は移転し、堀も埋め戻され「元吉原」の地名は残るが、いずれ名も消えてしまった。
この頃から物流の拠点は上流の浅草寄り(蔵前)へと移動、掘割・水路は埋められ上屋敷・町家となる。


江戸後期=安政6年(1859年)「矢ノ倉」移転後、堀は埋め戻され、両国橋は広小路の方へ移動された。
橋の南に「薬研堀」が存在、この堀には橋が架かり「元柳橋」
と記される。
◎印=「やげん堀唐辛子本舗」中島宅。 ☆印=本所「吉良邸」西側の「回向院」は明暦の大火の犠牲者を
供養するために幕府が建立したものです。赤塗りは寺を表しています。
この頃に多く存在した寺は城内から外堀の外へ移転した。 人形町・水天宮の南側には銀座の名が記される。


嘉永3年(1850年)の地図には江戸時代の町名が記された貴重な地図です。
城内
北東部唯一の入り口「浅草門」を入ると、「馬場」に馬を止める、ここは北への旅の基点となっています。
この場所は、現在の馬喰町になります。馬を売買したり扱う人が多かった。また逓送業の馬を扱う人が多く集
まっていた大伝馬・小伝馬町、鞍掛け橋の地名の通り、陸送の拠点でもあります。
また一方、海からの荷は
隅田川を経由して堀留から荷揚げされ、人足も多く暮らしていました。
ここは
物流の拠点でもあり、油・塩・衣類の問屋街で賑わい、旅籠屋も多く在りました。
蛎殻町に在る銀座は、慶長17年(1612年)駿府より京橋の南四町(現在の銀座1〜4)移る。その後京橋1〜2
に移り役所と銀貨工場となった。寛政12年(1800年)に不正事件が有り、蛎殻町に移転させられた。
地図提供=鳥安
一刀流、、
松浦道場↓

外堀 神田川
浅草見附↓

柳橋→
浅草門→
現=浅草橋
 
←将軍
 専用桟橋
吉川町→
両国橋
江戸一番
の繁華街
両国広小路
浅草馬場 →
時代と共に狭くなった
 
←将軍
 専用桟橋
←米沢町
←薬研堀町
←元柳橋

北辰一刀流
 千葉周作
馬喰町→
←横山町
  衣類問屋街
薬研堀
←矢ノ倉町
鞍掛橋→
←通塩町
  塩問屋
←若松町
←村松町
←橘町
外堀

 隅田川

←牢屋奉行
  囚人監獄

←通油町 
 油問屋
小伝馬町→
←通旅籠町
←鉄砲町
←大伝馬町
 船荷はここから
 荷揚げされた
堀留町

←難波町
 元=吉原
お富さんの
歌に出て来る
げんやだな
新大橋↓
←小船町
←銀座
小野派一刀流↑
小野家の屋敷  
江戸橋→
日本橋→

寛永9年(1632年)〜文久1年(1861年)までの両国橋界隈の町並みの移り変りをアニメに。
水路から堀・寺・大名屋敷・武家屋敷・町家の町名が一目瞭然。

* 江戸時代後期 と 昭和初期&現在 の 地図

* 両国橋の歴史
* 「牛島の渡し」が有ったとの記述有り。
  
 (江戸城外堀の北東側で、外敵から守るため千住大橋より下流には橋を架けたくなかった)
   (明暦3年の大火で逃げ場を失った江戸住民10万8千人が焼死した事で幕府の方針が大きく変わった)

* 万治2年(1659年)12月13日、浅草川大橋が完成。後に「両国橋」と名付けられた。
  
 (「武蔵の国」と「下総の国」の両方の国を結ぶ事から「両国橋」と名付けられた)
* 天和元年(1681年)12月24日火災で類焼し、浜町寄りに仮橋を架ける。
* 元禄9年(1696年)架替え完成。
  
 (元禄15年(1702年)赤穂義士が対岸の本所吉良邸での仇討ち後に橋を渡らず左折、外堀の外を通った)
* 元禄16年(1703年)11月29日小石川の火災で半分焼失の後、復興。
* 享保13年(1728年)9月の洪水で中程が流失の後、修復。
* 寛保2年(1742年)8月の洪水で杭が流失。
* 延享元年(1744年)5月完成。
* 文政6年(1823年)6月の洪水では、橋の上に「大石」「水を入れた四斗桶」を並べ 流失を防いだ。
* 天保10年(1839年)架替え完成。
* 明治8年、大きく改修され、親柱は石造りで煉瓦も使われた。
* 明治37年、架替え、鋼桁となり車道と歩道が分かれた。
* 昭和7年、大震災後の復興事業の一つとして現在の橋になった。


隅田川渡し舟
両国橋は官設の橋で、橋の両側には番小屋があり、武士のほかは橋銭二文取っていた。
文化4年(1808年)8月、深川八幡祭礼の日に永代橋が落下して千余人が溺死した後に 橋代を取らなくなった。
両国橋は非常に備えて架設されたものですが、対岸の本所開発には寄与した。
また、常時は眺望納涼の場として賑わい、花火も行われ、両岸橋詰の広小路は見世物小屋が繁盛した。
また、少し上流には相撲小屋もあり行き会う人で賑わい江戸一番の繁華街であった。


明治時代
大正時代
昭和初期
現在の両国橋 (昭和7年〜)

* 両国広小路碑
靖国通り両国橋詰と柳橋の交差点に「旧跡・両国広小路」の碑が有る。
碑は江戸時代後期の「嘉永」の切絵を彫った地図で「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」となっている。
昭和44年11月3日に日本橋両国町会が建碑したものです。
広小路は「火除け地」として防災の空地を設けたもので、
上野・浅草・両国が江戸三大広小路となっています。

両国橋際には見世物小屋などが開かれ、料理店も増えた。
三味線の音が響き、
芸者の置き屋や髪結い、着物屋なども
並び繁昌した。

江戸一番の繁華街は戦後まで続き、最後まで残ったのは
柳橋の料亭であったが、花柳街も徐々に減ることで静かな
街になってしまった。

医者の多くが集まり、薬問屋も多かったことから製薬会社は
この地で創業したのも多い。

両国橋の賑わい = 絵・豊国
両国橋の盛り場
この絵からも、江戸一番の繁華街であったことが分かる。両国広小路は広く「空き地にして置くには勿体ない」、
「見世物小屋」など出したいと願い出る者も多かった。それでよしず張りの小屋なら・・・との条件付で許可された。
(この近くに将軍の船着場が在り、将軍様がお成りの時は全て片付け、帰還後に再び建てられ興行許可された)
見世物には海外からもラクダや像など珍獣も多かった。娯楽場のみならず、小料理屋、大衆食堂、旅籠、船宿、
屋形船など規模は大きくなった。花柳界の芸者や歌舞音曲の踊り子など様々な人が暮らした。
両国橋夕陽見=北斎・画

* 現在は消えてしまった「町名」
「日本橋両国」
江戸時代の盛り場として銭形平次などの時代小説に登場する場所です。
両国広小路などにはヨシズ張りの見世物小屋や屋台店も多く出て賑やかな場所であった。
米沢町は船宿が多く、元柳町には柳橋花町として後期まで栄え、料亭には旦那衆が通った。
この界隈には、「
新柳橋・元柳橋・吉川町・米沢町・薬研堀町・若松町」と小さな町が多く在ったが、
昭和7年合併して「
日本橋両国」となり、更に昭和46年4月に現在の「東日本橋2丁目」と改められました。
「矢ノ倉町」
江戸初期の頃からこのあたりは「谷野」と言われ、正保2年(1645年)徳川幕府が堀を持つ米蔵を建てた。
これを「谷之御蔵」と称した。元禄11年(1698年)火災により焼失、米倉は築地に移された。
米倉移転後幕末まで、この地域は北東部は町家に、北西及び南部は武家屋敷として柳沢出羽守屋敷や
幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。
薬研堀町に住んでいた医者は、明治大正の頃には多くの病院を建て、医者町とも呼ばれた。
「矢ノ倉町」の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定
によって「矢ノ倉町」と定めた。
昭和46年4月1日住居表示の実施に伴う町名変更により現在の「東日本橋1丁目」となった。

「橘 町」
西隣の横山町と、東隣の村松町の北側を跨いで西本願寺別院が在り、門前の町屋で立花を売る家が多く
このため「立花町」(生花を立花<たてばな>と言った)となり、後に「橘」の字に改めたとの記録が有る。

 
*本願寺について=横山町付近の歴史は古く、永禄2年(1559年)には村落をなしていたとの記録があり、
 名称は古い。ここに元和7年(1621年)准如上人が西本願寺別院が創建、明暦3年(1657年)1月18日〜
 19日の明暦の大火で焼失。以後再建は認められず。八丁堀沖を埋め立て土地を築き、延宝7年(1979年)
 現在の築地本願寺となった。


松平越前守の邸とか米蔵も在り、また塩商人も多く、千葉行徳方面
からも舟で運ばれ、堀留で荷揚げされ
運ばれていた。
江戸後期には問屋街となり土蔵の店舗が軒を並べていたが、関東大震災で焼失した。
歌舞音曲で客をもてなす踊り子の町としても有名。「裃の膝に踊り子腰をかけ」の川柳の通り、若い娘達は
その容姿を売り物に風紀を乱した様子が伺われます。

元禄の頃には、薬屋として江戸中に知られた「大坂屋平六」の店が在った。 「ズボウトウ」と言うのど飴が
有名で「平六がとこ、すぼうとうよく売れる」・・・と、川柳にも唄われていました。
現在は横山町に並び衣類の問屋街として規模は広がっている。
昭和46年4月1日住居表示の実施に伴う町名変更により現在の「東日本橋3丁目」となった。

「村松町」
横山町から続く西本願寺別院は村松町まで伸びていた。浜町寄りには水路を持つ材木倉庫も在った。
寺が移転後徐々に町屋となり元禄以降栄えた町で、明主「村松源六」が一町を起立したので、その姓をとっ
て村松町になった。
外装だけ立派な、なまくら刀を売る店が多く有名になり「出来合いのたましい村松町で売り」・・・と川柳でも
冷やかされる商店の多い町でした。
昭和46年4月1日住居表示の実施に伴う町名変更により現在の「東日本橋1丁目」となった。

*地元「やげん堀商店会」では、旧町名を復活させよう…との機運が高まっているようです。
日本橋中学校の南角に有る「矢ノ倉」由来碑

* その他・行事など
両国川開き

享保18年(1734年)5月28日第一回の川開きが行われ、鍵屋6代弥兵衛が創始。
文化5年(1808年)鍵屋番頭が暖簾分けし玉屋を開業、以後は鍵屋/玉屋の時代が続き、
両国橋を挟み、上流は「玉屋一郎兵衛」下流は「鍵屋弥兵衛」が受け持って花火の技を競った。
(1843年、玉屋は火災を起こし江戸所払いとなり、一代で途絶えた)

昭和23年8月1日に柳橋(料亭)組合を主体として両国花火組合の待望の両国川開きが復活した。
つづいて昭和23年9月18日、東京都観光協会主催で第1回全国花火コンクールが開催された
翌24年に、川開きと花火コンクールが同時に開催されたが、花火業者は鍵屋だけでしたが、
東京・埼玉・茨木から業者5軒が増え、人出も100万人を超した。
以来、一時期をを除いて毎年続けられていたが、交通・住宅密集などの事情で昭和36年を最後に中止されていた。

以後、都民の強い要望も有り、昭和53年から7月の最終土曜日に再開されたが、会場は浅草付近の上流に移され
現在に至る。

初期の両国花火=広重・画
両国橋納涼花火=国芳・画
* 花火師「鍵屋」の歴史
萬治2年(1659年)
正徳元年(1711年)
享保18年(1733年)
文化5年(1808年)
天保13年(1842年)
明治7年(1874年)
明治10年(1877年)
明治36年(1904年)
大正13年(1924年)
昭和5年(1930年)
昭和9年(1934年)
昭和11年(1936年)
昭和45年(1970年)
昭和51年(1976年)
昭和60年(1985年)
平成12年(2000年)
鍵屋初代弥兵衛、奈良・篠原村より江戸へ出て日本橋横山町で店を開く。
隅田川で初めての花火を鍵屋が打ち上げる。
鍵屋六代目弥兵衛、5月28日、水神祭を行い、その際、両国川開き大花火創始。
鍵屋番頭の清七、のれんわけして、両国吉川町で玉屋を名乗る。
幕府は鍵屋、玉屋を呼出し、花火からくり(仕掛花火)、筒物を禁止した。
7月5日、両国花火。十代目鍵屋弥兵衛の苦心によリ花火が真丸く開くのはこの頃から。
鍵屋十一代目弥兵衛、塩素酸カリウム等によリ薄桃色とビワ色程度は出せるようになる。
8月、両国川開き大花火にスターマイン連発初めて登場す。
7月19日、両国大花火。大仕掛は日本名所日光華厳の滝。
7月19日、両国大花火。日本海大海戦の25周年記念と銘うって「日本海海戦」の大仕掛を打上げる。
7月21日、両国大花火。大仕掛は、皇太子殿下御降誕「御国の栄」の図。
7月18日、両国川開き花火挙行する。人出物凄く百万人と称す。呼び物は国際オリンピック大会の景。
鍵屋十三代天野太道「日本の花火」発刊。
鍵屋十四代を天野修襲名。花火大会ブームの中、江戸川大花火大会をこの年より開始。
この頃鍵屋十四代、点火技術の改良で電気化を完成。安全でしかも充実した打ち上げが出来る。
1月22日、鍵屋十五代を天野安喜子襲名。

* 明暦の大火

明暦3年1月18日未の刻(午後2時)に本郷の本妙寺から出火、当日は北西からの強風で
江戸八百八町を焼き尽くし、江戸城本丸までも焼いた。死者の数は10万8千人にも及んだ。
この年は80日以上雨が降らず、非常に乾燥した状態が続き更に強風が吹く悪条件だった。
伝説では「本妙寺振袖火事」となっていますが、・・・その他にも3つの説があります。・・・・・

 (1)本妙寺振袖供養からの出火説
恋に落ちた娘「おきく」は、見初めた相手の着物の色模様に似せた振袖を拵えて、毎日思い悩にていたが
明暦元年一月十六日、16歳で亡くなった。(墓の穴掘り人足の酒代に、着物は古着屋に出される慣わし)
この着物は次に「お花」の手に渡った。それ以来「お花」は病気になり、翌明暦二年一月十六日に死亡した。
その次に着物は娘「おたつ」に渡ったが、「おたつ」も翌年同じように明暦三年の一月十六日に亡くなった。
この度重なる不幸に気付いた三家は相談して、因縁の振り袖を本妙寺で供養してもらうことにした。
それで、和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだら、燃える振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、
それが燃え広がって江戸中が大火災となったという。
 (2)老中・阿部忠秋邸出火説
火元とされた本妙寺の風上に、阿部忠秋邸があった。そこからの出火が原因であったが、真相を知られるのを
怖れ、本妙寺に因果を含めて火元にしてもらったと言う説。老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、
江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。 
幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、 本妙寺は一切お咎めなしであった。 そして、その結果
として阿部家を出火の責任から救うということになり、それに対するお礼として色々と恩恵を受けている。
本妙寺は大火から三年後には客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、十年後には日蓮門下、勝劣派の
触頭(寺の位は高く、幕府からの指令を寺全体に伝えたりして仕切る)を任命された。 更に阿部忠秋家から
毎年本妙寺へ明暦の大火の供養料が大正十二年の関東大震災にいたるまで260年余に わたり 奉納されて
いた。(本来ならば、両国橋東詰の「回向院」が犠牲者の供養の為に建立さらたもので、こちらに奉納すべき)
 (3)由比正雪残党による放火説
由比正雪は、幕府転覆事件「慶安事件」の首謀者。「明暦の大火」の6年前の事件です。生き残っていた残党の
仕業の可能性も否定出来ない。
 (4)松平伊豆守信綱陰謀説
幕府は大がかりな区画整備にのり出したが、なかなか進まなかった。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた様に、江戸は火事が多かった。その原因は、道幅が狭く木造家屋で
木と紙で出来ていたので非常に燃え易かった。それで防災計画なども盛り込まれていた。

 
* 寺院と町屋の移動=広小路・防火堤の造成、吉原の移動などを含む。
 * 築地埋立と武家屋敷の移動=御三家屋敷の城外移転を含む。
 * 土地の拡大=両国橋の架橋、本所・深川地区の干拓と開拓などが行われた。


それで、松平伊豆守は、なかなか進まなかった区画整備計画には妙案は無かった。
この火災は=区画整備には非常に都合良く、一気に実行に移されたことから噂が広がった。
もちろん、本人が直接放火するはずもなく、誰かに命じて放火させたとする説です。ここで注目されるのは…
火が消えかかるところへ、また次々の火災が発生した。しかも発生場所は風上で焼き尽くすのには都合の
良い場所で以下の様になる。(江戸城は燃やしたくなかったが)
1番目=1月18日未の刻(午後2時頃)
     本郷4丁目西口の本妙寺より出火。

2番目=1月19日巳の刻(午前10時頃)
     小石川伝通院表門下、新鷹匠町の
     大番衆与力の宿所より出火。

3番目1月19日申の刻(午後4時頃)
     麹町5丁目の在家より出火。
これによって、幕末まで続く、江戸の骨格が出来上がったとも言われている。
しかし、この説は余りにも危険過ぎる。江戸城本丸までも焼ける被害は莫大な損害である。
こんな事から、この説は有り得ないと考えられる。

*両国界隈も甚大な被害
西本願寺・雲光院・日輪寺・本泉寺、他11の小さな寺や屋敷を燃え尽くしてしまった。
この火災で、風下になる浅草門には多くの人々が火を逃れて来たが、浅草門は開けなかった。
これは「伝馬町の囚人が逃げた」「一時、牢屋奉行が囚人を解き放った」など噂が飛び交い…それで浅草門は
開かなかった。(浅草門は=現在の浅草橋です)
人々は門や塀を越えたりしたが、堀があり、見る見るうちにこの堀が押しつぶされた死体で埋まった。
翌日の午前四時頃鎮火したが、夜が明けるとこの辺り一帯に二万五千もの死体が山の様に転がっていた。


参考資料=明暦の大火の約200年後の安政6年(1859年)の地図です。
 3ヶ所の出火位置が確認出来ます。
明暦の大火後に区画整備されて江戸の地域は大きく広くなっています。
上野公園
浅草寺→
阿部忠秋邸、
(阿部伊予守子孫)
不忍池
2番目出火伝通院表門下
新鷹匠町の大番衆与力の
宿所より出火。
1番目の出火元=本妙寺
東京大学赤門付近ですが
現在は巣鴨5丁目に移転
←神田明神
当日の風向き
3番目出火麹町五丁目
この辺と思われます。
←靖国神社
両国橋→
この頃の区画整備は築地の干拓
隅田川川向こうの干拓、寺の移転
も完了・・(赤塗りは神社仏閣).・・
外堀には橋も多く架かっています。

←半蔵門
日本橋→
←江戸橋
これは安政6年(1859年)の地図です。
明暦の大火の時とは異なりますので、ご理解下さい。

* 江戸幕府以前 と 江戸前期 の 地形

七味唐辛子 アニメ静止画像に飛ぶ