The Mizuuri 回想録 Vol.1

今回は、第1幕「旅立ち編」とでも言いましょうか。
ミズウリ回想録、第4章「東京へ編」いかがでしたか。
「人に歴史あり」ジョニー黒田が、指1本で書き込んだアンソロジー。
これから「ミズウリ」に加入したジョニーが色々やってくれました。
第2幕としてまた、新たにHPが展開いたします。

文章はオリジナルを尊重したページを作っていきたいと思っています。
表現のニュアンスは、本人の個性と思ってくだされば幸いです。
誤字・脱字・間違いがありましたら、ご指摘下さい。
背景画面は単色が見やすうございます。
見た目パッとしませんが、読みやすさを優先いたしました。
ご協力者また関係者に感謝いたします。
今日は、ジョンの誕生日 皆さまに、何かいいことありますように。
LOVE&PEACE
2004年10月9日
管理人:大ちゃん
協力:あおっちさん

By ジョニー黒田

第4章 東京へ

 バンドでイケイケ 投稿者:殿 投稿日:2003年11月10日(月)18時35分47秒

結成なったものの方向性もバラバラ、ましてやチームワークなん・・これがまた何故かうまく
いったんだ。やっぱ同期のよしみっうのかな?なんかよく分からんが、うまくいったんだよね
〜しかし音楽性に関してはやはりバラバラでフォークから〜高中正義まで、出来る出来ない
に関わらず、レパートリーに組み込んでしまう乱暴者バンド!でも楽しかったな。ほとんど週
末はこの二人といて酒、たばこ、トランプ、野球盤(消える魔球付き)などにうつつをぬかして
まして、高校生活をエンジョイしてたよ。でも仲間というものはいいもんでおいらが暴走族と
抗争になったときも先輩、同期がたくさん集まってくれて、おいらの知らないところで、その族
の頭がへこまされてたりしていろんな面でアシストしてもらったよ。もちろんおいらもしたけど!
つまりバンドのよしあしは音楽以外の親密さがものを言う!そんな気がします。バンドはみん
な仲良くね。

 ちょくら東京へ 投稿者:殿 投稿日:2003年11月12日(水)12時06分56秒

バンドを掛け持ちしながらなんとか高校生活をクリヤしたのちToropicalMoonは、誠一の上京
の為活動停止。そしておいらはまたNewバンドを立ち上げた。その名はUP!そのバンドは、
佐野元春にえらく影響を受けたスタイルでおいらが作る曲をやってた。このバンドの特徴は、
おいらが本格的にボーカリストを目指したという事と他のメンバーは、ほとんど無名に近い、
どちらかというと内面の燃え盛る屈辱に対する思いをもっている人達を選んだ・・・
なぜか?そういう人達の心のパワーを引き出して周りを驚かせてやるのと、彼らに自信をもた
せる、役割をもってたんだよ。しかしその運営にはかなりの体力と精神力を要した為、考えた
末”STICK”を脱退した・・・でもそれは”STICK”とのコンテストでの対決を意味した。

 ちょくら東京へ2 投稿者:殿 投稿日:2003年11月16日(日)11時17分53秒

そして、とうとうその日がやって来た・・・ロックフュージョン82。この大会を征したもののみが北陸
大会へと駒を勧める事が出来たんだ。当日は、やはり数日前の切り傷がかなりヤバく、ほとんど
左手親指が動かない・・・傷口は開きそう。しかし、やらなきゃどうしようもない・・・やりました。
それも思いっきり!結果は・・・傷口開いて、血はドクドク・・・ア〜ンド最優秀バンド&最優秀ボー
カル&オリジナル賞。やったー!でも後からの周りからの風あたりは、かなりキツかったよ。
でもって気がぬけちまったのか、北陸大会でみごと落選。トホホ、しかしメンバー達の目付きが
以前とは「別人28号」英語でいうところの「ジャガーチェンジ」豹変?つう位、アカの他人に変わっ
てしまわれたのでございます。そして春日局、じゃなくおいらの作戦は大成功!となるはずだった
のだが、とんでもない落とし穴が待受けていた・・おいら、メンバーに激を跳ばし背水の陣よろしく、
「俺は、この大会で勝ったら東京で勝負する!!」とわめいてしまってた。つまり”STICK”に勝てる
とは思ってなかったのかも、安易だった。それからというもの会う仲間達から「いつ東京へ行く?」
と言われ続け激励会なども勝手に開かれ、挙句の果ては、TVでまで発表され、司会の清水アキラ
(ものマネで有名な)にまで励まされ、行かざる負えなくなっちまったんだ。まぁその当時のおいらの
彼女も翌春には、東京の短大行きが決まってたので、二人で上京する事にした。まるで駆け落ちの
ような話だけど、実際、そんな気分だったかもね。上京する汽車の中、何度も引き返したい衝動に
かられたのを思い出すよ。

 東京には出たものの 投稿者:殿 投稿日:2003年11月24日(月)21時42分04秒

東京に出てきたけど、右も左も分からない。とりあえずバイトを探して私生活を維持しなければと思って
いろんなバイトをやりました。築地の八百屋、東京ドームでの測量工事などなど。その合間にメンバーを
探して、オリジナルバンド、”ハートブレイク”を結成!メンバーはドラム沖之エラブ島出身のさちお、ギタ
ーは、おいらと豊田のふかし、ベースは富山の誠一、キーボードはその当時の誠一のガールフレンドの
ゆうこ。まぁいろんなメンバー変更がその後あったけど都内や横浜などのライブハウスに出まくってたよ。
だけどバイトと新曲作りがうまくかみ合わなくてね。その当時知り合いだったKANなんかがうらやましくて
さ。あいつらは、学生で親の仕送りがあって、バンド練習も学校を使ってタダ!こちとらバイトと深夜の
バンド練習と曲作りでぼろぼろ。でも四年位頑張ったよ。そして解散。そのダメージで一年位ギターに触
れなくなったんだ。それでバイトに没頭して正社員になり生活も安定してきた頃、彼女に「音楽をやって
ほしい」と言われた。まぁ彼女はいろんなおいらの苦労をじかに見てきたからずーと言えずにその日まで
きたんだろうね。その彼女もアーティストでダンスパフォーマーを目指してたからなおの事。つらい発言だっ
たと思う。それで考えた末、一番のおいらの音楽へのきっかけとなったビートルズをやってみようと決めた
んだ。そのあとは田口が書いてくれた通りだよ。そして今のおいらがあるんです。なんか好き勝手に書き
なぐったけど、書きながらいろんな思い出があふれて書き足りないほどでした。人は一人では生きられな
いし、人あってこその個人なんだろうね。これを読んでくれた方々とここに登場したすべての仲間に心から
感謝します。ありがとう。

 ジョニーとの出会い 投稿者:田口 投稿日:2003年11月7日(金)23時54分38秒

今、非常に興味深いジョニーの半生が掲載されているけど、僕と彼との出会いはもう15年くらい前だね。
(結構古いかも?)ついでだからHP読者のファンに駆け出しの頃のジョニーの話を教えちゃおう・$Gv・。
当時のミズウリ(ご存知ジョニーの原点のバンド)はベースとリードの二人しかいなくてビートルズの宅録
やっていた。しかしライブの欲望は募るばかり。そこでいつも出入りしていた後輩の僕にバンドメンバー
募集代理の指令が来たのです。そのため、僕は現在練馬にあるビートルズ専門楽器店(当時は本郷)
に貼紙をしておいたところ、しばらくして最初に電話をかけてきたのが、何を隠そうジョニー黒田という訳。
そこの店長がミズウリをよく知っていて、宣伝してくれたそうです。(つづく)

 ジョニーとの出会い(その2) 投稿者:田口 投稿日:2003年11月8日(土)00時21分25秒

ジョニーと最初に電話で話した時、同じ年ということもあって昔からの知り合いみたいな感じだったよ。
ただ、とにかくいきなり「聴いて!聴いて!」と言って、生エレキ弾きながら”SlowDown”等数曲電話口で
歌い出したのにはビックリ!そしてジョンの歌い方講座が始まったのです。確かにジョンに声が似てるな
あと感心したけど、一方的に歌いだしたのには苦笑しました。すぐにミズウリのメンバーに報告したら、
「そいつ大丈夫!?」と不安がってたっけ。
とにかく一度会って音合わせすることになりました。

 ジョニーとの出会い(その3) 投稿者:田口 投稿日:2003年11月8日(土)00時51分10秒

ミズウリのメンバーの自宅兼スタジオで待ち合わせることになったのですが、彼はギター片手に幼なじみ
の綺麗なガールフレンドを連れて現れました。ジョニーとは道でちらっと擦れ違った際、やたら顔がジョン
に似ていたので「あいつかな?」と見当をつけていたら、やはり当人!さっそくドラム抜きで音出しと相成っ
たのです。当時ジョニーの発する英語歌詞はメチャクチャでしたが、声は似てるし、シャウトが出来て、指
も動く。何よりも後で分かったことですが、ビートルズだけでなく「女」が大好きということで、快くバンドの
ジョン役として加入することになりました。これが彼のビートルズ道を極める第一歩となったんです。
その後、数多くの紆余曲折があり現在に至る訳ですが、話すとマズイ事もあるのでここら辺で止めとこっと。
ファンの要望が多ければ、また発表してもいいけど。今宵はここまで!