幻の3番線


 気配を感じて、僕は文庫本から少しばかり視線をあげた。
 いつもの柱の横の、いつもの位置に、いつもの姿の彼女が立っていた。
 須磨東高校の制服だ。今日も僕の事は眼中に無いように電車を待っている。
 もっとも、僕の事など眼中に無くて当然だ。僕の方も、まともに視線を交わすことなく文庫本越しに彼女の姿を見るだけなのだから。
 彼女の姿を最初に見たのは1年程前だった。いっけん、何処にでも居るような目立たない娘だった。街の雑踏の中に埋もれてしまえば、余程注意して探さないと見つける事は出来ない様な娘だった。しかし、ずっと見続けていると、いつの頃からか可愛く感じられるだけでなく、美少女であるという事も発見した。彼女が、美少女に見えてきだしたのは、ひと月と少し前位からだ。それ以前の僕は、そのまま視線を文庫本に戻して、電車を待つ時間を楽しんでいたのだが、今は違う。僕の視線は、文庫本を飛び越した所にある。
 いつもの時間に風が彼女の肩まである髪を揺らし始める。いつもの様に彼女は少し、うっとうしそうにその髪を払う。
 すると、いつもの様に乾いた電子音と共に、電車の入ってくる旨のアナウンスがホームに響く。
 緑の電車がホームに滑り込んでくる。彼女の髪が揺れている。
 僕は文庫本を鞄にしまって、いつものベンチから立ち上がる。いつもの車両のいつもの扉で友人が片手を軽く挙げて迎えてくれる。扉が開き、僕も同じように片手を軽く挙げ挨拶を交わしながら電車に乗り込む。まるで一種の儀式の様に。
 一瞬、彼女が乗り込んだ扉の辺りに視線を向けるのだが、彼女の姿は車内の雑踏の中に消えてしまい、見つける事は出来なかった。
 扉が閉まり、緑の電車は学校のある名谷に向けて走り始める。僕は彼女の事など気にも留めなかったかのように友人と取り留めの無い話を始める。進路の事、実習の事、昨日見たテレビの事、隣駅にある女子校の事。
 しかし、毎朝見かける彼女の事だけは、何故か話す事は無かった。

−−−

 僕は六甲山の裏側に古くから広がっているベッドタウンである鈴蘭台と呼ばれている街から、これまた六甲山系の裏側に最近開発されたベッドタウンで、西神ニュータウンの名谷駅の近くの高校に通っている。名谷周辺は高校が多くあり、その殆どが新しいものだから、制服も男子でもブレザー等オシャレなものが多いのに、僕の通っている高校は、兵庫区からの移転で校舎が新しくなったものの、古い伝統を受け継いでか、この辺りで唯一の伝統の黒の詰襟の学生服だ。
 僕は、毎朝始業の1時間前には家を出る。最寄りの駅は、神戸電鉄の西鈴蘭台駅。
 電車は、西鈴蘭台駅を出ると、鈴蘭台西口を過ぎ、鈴蘭台で有馬線と合流する。この頃には車内は人でいっぱいになり、文庫本を開く余裕すら無くなっている。有馬線には北鈴蘭台という駅が在って慣れない人は、どの駅が何処かが紛らわしくて仕方が無いと言う。
 鈴蘭台を出ると、電車はいきなり人跡未踏とも思える六甲山系の山の中を、神戸の街目指して駆け下りていく。周りに民家どころか道路すら無い山の中を、くねくねと走っていくが、この時間帯は3分おきに電車が走っており、やたらと下り電車とすれ違う。
 やがて、この何も無い山の中に突然菊水山駅が姿を現す。駅といっても、駅舎も何も無い無人駅だ。もちろん駅前広場はおろか、道すらも無い。よく見ると、六甲の緑の中へと、登山道とも獣道とも区別のつかない路が消えていっている。
 死んだバアチャンの話によるとこの駅は、六甲の弧狸・木霊の類が、人間に化けて神戸の街へ降りていくためのもので、時々、この世のものとも思えぬ程のべっぴんの娘さんが乗り降りしているのを見たという話を、冗談まじりでしていたのを思い出す。
 そんな話を信じてもいいような気になる程の、山の中の駅を駆け下りて、源平の昔、有名な戦いがあったとされる鵯越駅を過ぎると、ようやく神戸の街と六甲の緑の境界となる。
 次の丸山駅では遠く眼下に神戸の港を眺め、長田駅を過ぎ電車は地下へと降りてゆき湊川駅へと到着する。
 ここで電車を降り、神戸電鉄の改札を抜けて、地下鉄の湊川公園駅へと乗り換えのため、長く人気の無いコンコースを歩いて行く。

 1年前、地下鉄が延長された。それまでは、新長田までしか地下鉄は走っておらず、僕は湊川で電車を降りることなく、終点の新開地で電車を乗り換え、山陽電車の板宿駅まで行き、そこで地下鉄に乗り換えていた。
 地下鉄延長のおかげで、2回の乗り換えが1回で済むようになり、15分ほど時間の余裕が出来たのだが、僕は朝の生活パターンを変える事なく、西鈴蘭台発のいつもの電車に乗っているので、名谷駅から逆算すると、通学には少し早い時間になってしまい、辺りにはまだ人影が殆どない。
 そして地下鉄の自動改札を抜けようとする頃、電車を降りた人波とすれ違う。さっきのコンコースを走れば、この電車に間に合うのだが、そうまでして早く学校に着かなければならない理由も無い。
 長いエスカレータを降りていき、ホームに着いた頃には、さっきの人波も消えており、辺りはひっそりとしている。そして、ホームの反対側まで歩き、最も人気の無い辺りのベンチで文庫本を開いて、地下鉄が来るまでの約8分の、至福の時間を過ごすのが日課だった。一年前は、この8分のうち殆どの時間、僕の視線は活字を追いかけていたが、その時間が少しずつ短くなってゆき、今では殆ど活字を見てはいない。
 しかし、だからといって、彼女に声をかけてみようという勇気は無かった。というより、初対面の女の娘に、声をどうやってかけたら良いものかが判らなかった。伝統の市工造船科、硬派が詰め襟着て歩いている人間が多く、初対面の不良にいちゃもん付けられた時には言い返せても、辺りに女の娘の居ない環境の生活では、どうしてよいものなのか見当がつかなかった。
 いや、それ以前に恐いんだという事は自分でも判っている。告白する事によって、OKの返事がなけれは彼女はもう、いつもの時間に此処には来なくなるだろう。そうなれば、文庫本越しに彼女の姿を見る事すら出来なくなってしまう。それが恐い。
 彼女の姿から文庫本に視線を戻すと、物語世界の中の住人が、その物語の主人公に向かってしゃべっていた。
 「あんた、そうやって、いつも逃げてばかりじゃないの。男だったら当たって砕けてみたらどうなのよ。」
 僕は心の中で、物語世界の住人に向けてつぶやく。
 そうゆうおまえ等は、砕けてしまった事がないから、そんな事言ってられるんだよ。
 現実はハッピーエンドばかりだとは限らない。当たらなければ、少なくとも砕ける事は無い。

−−−

 風が冷たくなる頃、進路が決まった。そして就職の為神戸を離れる事になった。工業高校では卒業後、就職するのは珍しくない。むしろ大学に進学する事の方が珍しい。一応大手メーカーでの技術職だ。普通科の連中は、いかに良い大学へ進学するために勉強をするが、工業科では良い会社へ就職するために資格を取りまくる。そうゆう学生を目当てで、全国から就職の募集がやって来る。良い会社への就職が決まったが、それは神戸から離れればならない事を意味していた。
 卒業までのわずかな期間、朝の8分間、いつものように彼女の姿を眺めながら、告白しようか、やめとくか悩みながら、いつものベンチに座って過ごしていた。この頃は、もう文庫本は持ってはいなかった。
 もしかしたら、少しでも僕という存在が此処に在るという事を、無意識にでも彼女に印象づけようとしていたのかも知れない。いつもの時間の、いつものベンチに座っているのは僕だと。その為、僕は文庫本を読む振りをするのは止めにしたのかも知れない。
 そんな僕の存在を知ってか知らずか、いつもの時間に彼女は現れ、いつもの柱の横に立って電車を待っている。
 いつもの時間に、彼女の髪を揺らす電車が運んで来る風に、微かに春の気配が感じられた。
 そして、今日も告白出来なかった。明日は卒業式だ。

−−−

 卒業式の朝、僕は腹をくくった。
 告白しよう。
 彼女が僕の事を、いつも自分の事を見ている変質者と思っていれば、毎朝僕の居るベンチの近くには来ないだろう。彼女は僕の事を、気にも留めていないかもしれないけども、少なくとも嫌われてはいない筈だ。
 しかし今更告白しても、どうしようもない事は判っていた。彼女が僕の事を嫌いで無いとしても、数週間後には僕は神戸から居なくなってしまう。
 それでも僕は、彼女に恋をしていた自分という存在が居たという事だけでも伝えたかった。
 だから、それが単なる自分勝手なわがままでしかない事に気づいてはいたけど、あえて告白する事にした。

 いつもの時間になった。
 いつもの様には彼女は来なかった。
 いつもの電車がやってきた。
 結局、彼女は現れなかった。
 いつもの車両の、いつもの扉で、いつもの様に友人が能天気に片手を挙げている。
 結局、世の中って、そんなもんさ。
 僕は心の中で、そう呟いて自笑気味の笑顔で手を挙げかえし、電車に乗り込んだ。

−−−

 あっけない程簡単に卒業式は終わった。
 普通科のちゃんとした高校なら、体育館か講堂にでも集まって、校長以下延々と在校生代表に至るまでの話を聞き、卒業生一人一人への卒業証書授与のセレモニーやらでたっぷり時間をかけた上に、クラスの女子という女子が寄せ書き帳を廻して来るわ、下級生が記念にとボタンを奪いに来るわ、担任の教師が何故か熱血先生に変身するわで、人生のイベントが団体さんでやって来た状態なんだろうけど、男ばかりの工業高校では、そんなイベントは一切無かった。
 校長の話も校内放送で教室で聞いただけだし、卒業証書も担任がテストを返す様な感じで配っていたし、男ばかりのクラスで寄せ書き帳を廻すだなんて気持ち悪い事をする奴は居なかったし、下級生の男子が「先輩!記念に第二ボタンを下さい」なんて、語尾にハートマークをつけて迫って来るなんて最悪の事態にもならなかった。もっとも今日は、うちの学校は在校生にとっては休日になっている。
 そんな訳で、卒業式はあっけなく終わった。仕方ないので、友人数人と連れ立って技術教科の先生達に挨拶回りをしたのち、駅前のドーナツ屋で何時ものようにダベリながら時間をつぶして過ごした。
 いいかげん話題も尽きて、お開きにする頃、他校の生徒の姿が見え始めてきた。手には円筒形の筒に、花まで持っている。うちの学校の卒業証書はB5版の「いかにも書類です」ってな代物なので、僕らは卒業生にお馴染みの筒は持っていない。就職が大半の工業高校生にとって、卒業証書はコピーして入社手続きの書類に添付する為の物なので、金色の飾り枠の付いた、額にでも入れて飾って下さいという様なものではない。
 そんな他校の卒業証書を入れる筒を見ていると、これから僕らは社会へと出て行かなければならないと言う意識があらためて感じられた。
 そう、もうすぐ此処から離れた別の場所での生活が始まる。
 一抹の不安と寂しさが、僕の心をよぎっていった。それに追い討ちをかけるかのように、友人の一人が窓の外を歩いている他校の卒業生を見ながらシニカルに言った。
 「そこ歩いてる奴と、その向こうの奴のボタン。2番目があれへんけど、告白されよったんか、彼女持ちかなんやろな。ええなあ。いかにもセイシュンって感じで。」
 別の友人がそれに応える。
 「そんなん、うちの高校で第二ボタンくれ言われたら、ごっつ気持ちわるいで。」
 僕も調子に乗って
 「第二ボタン無いんが羨ましいんやったら、ボタン外して店のゴミ箱に捨てていったらええやん。とりあえず卒業式の思い出ぐらいにはなるで。」
 「なんでやねん。」
 落ちがついたので、とりあえず店を出て駅に向かった。

−−−

 地下鉄は卒業式の終わった学生で、かなり混雑していた。何時もの様に友達と別れたが、もう何時もの様な別れかたは2度と無いのだ。
 一人扉の前に立って、地下鉄の外を流れていくトンネルの壁を見つめて、そんな事を考えていた。
 何時もの事は今日でおしまい。
 電車のスピードが落ちて、降りる駅に近づいて来たのが判ったので、視線を戻したその先に、何時もの彼女の姿があった。
 彼女は車両の一番前の扉の近くに立っていた。ちょうど座席に座っている人の頭越しに姿が見えた。
 窓の外が明るくなり、電車は駅へと滑り込んでいった。座席に座っていた人達が立ち上がって、彼女の姿が見えなくなる。
 電車が止まって、扉が開く。
 慌ててホームに降りると、電車から降りる彼女の姿が一瞬見えて、また人の波に隠れる。
 運悪く、反対のホームにも電車が入っており、その電車から降りる人も加わったので、彼女を追おうとするがうまくいかない。
 再び遠くにエスカレータを昇っていく彼女の後ろ姿が見えた。
 しかし、エスカレータの乗り場付近は人が溜まって前へ進む事が出来ない。その間にも、彼女との距離はどんどん広がっていく。
 仕方なく、エスカレータとは少し離れた階段に向かう。地下のかなり深くに線路を引いているせいか、階段は遥か上へと続いている。
 階段を2段とばしで駆け登ると、さすがに息が切れて身体に酸素が不足している事を実感する。彼女の姿を探すが、視界が少しぼやけている。
 自動改札機を早足で抜けて、呼吸が落ち着いて視界がはっきりする頃に、再び彼女の姿を見つける事が出来た。
 ちょうど彼女は、神戸電鉄の湊川駅へと向かうコンコースを曲がろうとしているところだった。
僕も早足で彼女との距離を縮めるように、前を歩いている人達を左右にかわしながら追い越していく。みたび彼女の姿が曲がり角の向こう側に消える。
 思わず駆け足になってしまったが、前からきた人を避けきれずに肩がぶつかってしまう。
 気にせずに彼女のあとを追いかける。後ろで罵声のような声がしたが、振り返らない。
 角を曲がると、神戸電鉄の改札を抜けようとしていた彼女の姿が見えた。
 彼女は僕と同じく、神戸電鉄から毎朝乗り換えていたんだ。それだけの事だけど少し嬉しくなってしまう。この事を話の糸口にして、この先のホームで彼女に声を掛けよう。後ろから追いついて、いきなり声をかけるより自然だ。
 よし、毎朝地下鉄のホームに居るよね、きみもこっちの電車も使ってたんだ!などと偶然を装う計画で行こう。

 改札を抜けた彼女が、ホームへと続く階段を降りていく。いつも僕が降りていくのとは、反対にある階段だった。
 僕も彼女に続いて改札を抜け、彼女が降りていった方の階段に向かおうとして、少しばかりの違和感を感じる。
 ホームに降りる階段は二個所あり、どちらの階段を使っても同じホームへ降りる事が出来るのだが、僕はこの駅を通学で毎日利用しているにも関わらず、この階段は一度たりとも使った記憶が無い。
 釈然としないものを感じながら、階段を降りようとすると、ホームに電車が入っており、開いたドアから彼女が乗り込もうとしているのが見えた。
 まずい。そう思って階段をダッシュで駆け降りる。
 ここで彼女を見失うと、この先二度と彼女と出会えるチャンスは無くなってしまう。今朝失ったチャンスが、今再び敗者復活のように今此処にあるのだから、このチャンスだけは無駄に出来ない。
 「3番線ドアが閉まります。ご注意下さい。」
 駅員のアナウンスが響いて、笛の音が聞こえる。
 「ちょっと、待って・ ・ ・ 」
 駆け下りながら僕は叫んでいた。この叫びは、彼女に向けたものなのか、電車のドアを閉める合図を送っていた駅員に向けたものなのか、自分でも判らなかった。
 この叫びも出発の笛の音にかき消されていただろう。
 しかし、僕の叫びに応えるように彼女が振り返った。
 そして、彼女の視線が僕を捕らえて、僕の視線と交差した時、ドアが閉じて僕と彼女の間を隔てた。
 僕は一度閉まったドアに両手を掛けた。まだ電車は動き出していない。こうすれば大抵の車掌はドアを開けてくれるはずである。
 前に出した両手の先に彼女がこちらを見つめ立っていた。間にドアが無ければ彼女を抱き寄せようとしている様な格好になる。
 この時初めて僕は、彼女の顔を正面から見た。彼女は神秘的な瞳をしていた。
 一瞬の出来事なのだが、果てしない時間と思える間、ドア越しに見つめあってしまった。
 辺りが静寂に包まれている。間が持たなくて、僕は困ったような、照れた様な笑みを浮かべた。
 それに応えて、彼女が微笑んだ様な気がした。
 静寂の中、ドアが再び開く音はせずに、リンリンと電鈴が2回響いた。
 モーターの音とともに、電車がゆっくりと動き出した。仕方が無く僕は電車に掛けていた手を下ろした。
 やがてドアの内側の彼女が見えなくなり、そして彼女が乗った電車も地下の闇の中に消えていった。赤いテールランプもすぐに見えなくなった。番線を示す電光表示の3の数字だけが妙に光っているのが切なかった。

 おわったな。
 心のなかで、そう呟いて近くのベンチに崩れるように座り込んだ。
 脱力感。
 
 少し落ち着いた頃、同じホームに次の電車が入って来る音がした。
 「2番線、電車にご注意下さい。」
 駅員のアナウンスが響いている。
 電車は僕の座っているベンチの所まで来ずに、かなり手前で停車した。
 家に帰るのに乗る行き先の電車だったので、のろのろと立ち上がり、電車の方へ歩き出す。脱力感は、未だ拭えてはいない。
 ホームの反対の線にも、上り電車が近づいて来る音がする。
 「1番線、電車にご注意下さい。」
 駅員のアナウンスを背に、のろのろと電車に乗り込む、ドアが閉まり、閉まったドアの向こうに電車が入って来るのが見えた。
 先ほどから隅っこの方にあった違和感が何故か次第に大きくなっていった。
 目の前を、さっきまで僕が座り込んでいたベンチが過ぎていき、やがてホームが途切れ外の景色が地下の闇に変わった。
 そして違和感が最大に感じられた時、目の前の景色が白くホワイトアウトし、ひとつの疑問が沸き上がった。 
 目の前がホワイトアウトしたのは、電車が地上に出たからだった。太陽の光が眩しい。
 しかし電車は、すぐまたトンネルへと突入し、窓ガラスに自分の顔が写る。

 そう、湊川駅は、上り線と下り線の間に挟まれたホームが、ひとつあるだけの駅なのに、どうして3番線があるのだろう。
 上り線と下り線、1番線と2番線。駅の線路にはポイントも引き込み線も無い。よって3番線は存在しない。
 いま乗っている電車が到着した線も、アナウンスでは2番線といっていた・ ・ ・ 。
 でもたしか彼女は、3番線から電車に乗り込んだ。駅のアナウンスも確か3番線と言っていた。僕もこの目で3番線の表示を見た・ ・ ・と思う。

 それとも僕の見間違いだったのだろうか・ ・ ・ 。
 違う。
 では、見間違いでないとすれは、一体何なんだ。
 頭の中で自問自答を繰り返す。電車はトンネルを抜け、午後の柔らかい日差しが車内を包み込む。
 街並みの後ろに、六甲山系の緑が立ちはだかっているのが見えた。
 ある筈のない3番線。一度も通った事の無い駅の階段。
 そして、神秘的な瞳をしていた、いつもの娘。
 答えを導き出せないまま、思考は繰り返し同じところをループしている。電車はいつしか六甲の緑の中を走っていた。
 やがて、電車は菊水山駅へとさしかかろうとしていた。だが電車は、速度を落とす事無く駅を通過していく。無人のホームと、その後ろに続く六甲の木々を見ていると、不意に死んだバアちゃんが冗談で言っていた菊水山駅の事を思い出した。
 六甲に棲む木霊やもののけの為の駅。
 僕の頭のなかで、ひとつの仮説が答えとして導き出された。ひどく馬鹿らしい仮説だった。
 駅を通過する時に窓の外に見えた、ホームの端から山の中へと続いている道の奥に、一瞬毎朝見慣れたあの、須磨東高校の制服が見えた様な気がした。

−−−

 穏やかな日差しを受けて、僕を乗せた電車は、ゆっくりと鈴蘭台に向かって50パーミルの坂道を登っていった。


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