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鎮守の森といいますと、「神社の敷地で木が一杯生えてるトコ」といったイメージですか?
先日、社叢(しゃそう)学会というのが出来た…という新聞記事がありました。それによると「その土地の潜在自然
植生、つまり土地本来のふるさとの木によるふるさとの森が残されている」のが鎮守の森だということなのでした。
森は、高木層、亜高木層、低木層、下草層という立体的な多層郡落で構成されている。そして…そうった森こそ
最も強い自然の表現を持っている…というのです。
「高木・亜高木・低木・下草・土の中のカビ・バクテリア」様々な生き物が、いがみ合いながらも限られた空間で
精いっぱい生きている。…これは、このまますっぽりと人間社会の有様にも重なり見えてこないでしょうか…?
高い奴、低い奴、鈍い奴、素早い奴、白い奴、黒い奴、黄色い奴etc..。 様々な奴等がいがみ合いながら
ひしめきあいながら揉み合いながら限られた空間で精いっぱい生きている。なんという一体感。森は縮図なの
かもしれないって、ある種喜ばしいようなくすぐったいような。
「それぞれ多少の我慢を強要され、そして競争しながら、共生している。これが健全な生物社会の姿でしょう」。
…と、社叢学会顧問の国際生態学センター研究所長(植物生態学)宮脇昭さんは仰る。
ここに、私達の日頃イメージする「共生社会」と、真なるものとを見比べる鍵が隠されていないでしょうか…?
私達は学校で、「思い通りに伸び伸びと枝葉を広げ、才能を伸ばしましょう」と教わる。同時に他人に対しても
「邪魔をしないように、妨げをしないようにしましょう」と教わる。これは森の姿なのでしょうか…。
全員が全員同じ取り分だけ「枝葉を広げる」…そんな画一的なことは自然形体の中には存在しないわけで。
広げられたり広げられなかったりするわけで。また他の木々もそうなわけで。森の中では「隣の奴に取った取ら
れた」と文句を垂れるものはいないわけで…。
受け入れられている。そしてまた自分も受け入れる。
どっちが先だ後だもない。自然にそれを受容している…。
※ ※ ※ ※ ※ ※
ギスギスしちゃダメだよね。損だ得だにしがみついては
小さな…だけど本当に大切なものを見落としちゃう。
しかし…そんな人間たちをも受容して、文句も訓示も
一つも垂れずに受け入れてくれる「森」。そんな森を昔
から日本では信仰の対象として大切にしてきたと。
やしろ…「社」は「モリ」とも読まれますね。
それは「土地の神の坐(い)ます森」。 人間社会に例え
られる森はまた、神にも例えられ。なんだか益々嬉しく
なってしまいますね。
さてさて。実は上記イラストに、木の精「ドライアド」(ギリ
シャ神話が元)を添えようかなと最初思って準備していたんですよ。ギリシャ神話では「精霊」のことをニンフといい、
森や自然を守護したり宿り木にしたりして“人の隣で”これまた共生していたって感じです。
しかし、出来あがったら… 森に宿るもの。人と似、神と似…。そんなイメージを追っていたら、自然と卑弥呼様系
に落ちつきまして。(^_^;) 「土地の神の坐(い)ます森」。 うむうむ。会心の出来です。(^_^)/
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