|
才能の有る無しが、言葉の上手下手ではない。
著者は哲学・倫理学の先生で、たぶん読者層は職場で頑張るサラリーマン?と思いながら読ませて貰いましたが、楽しかったです。人に自分の考えを伝え述べる時、「説明力」がものを言いますから、それについて考えてみましょうという本です。
人に説明をして、それを人に理解してもらおうと思ったら、人って何?っていうところにゆくというわけでしょうか。著者は人の本性を、「現在の欲望を超えてゆこうとする衝動力」だと言っています。基本的には私利私欲で動いているというわけです。みんな、自分が一番可愛いのです。そして、自分が一番可愛いと思わないほうが、可笑しいのです。
そして、人は「情」の生き物です。だから相手の感情を踏みにじるような形のものは、論がどんなに正当であり正論であっても、説明力はそこには有りません。
人はいつでも大概、良かれと思って何かをしています。そこに正論をぶつけたら、相手の面目は潰れます。面目を潰された者がこちらの説明を身に入れるかといえば、それどころか反感や恨みを買い、更に説明力を落とす結果になる…。そういうことを知っておかなければいけません。
相手にしているのは間違い無く「人間臭い程の人間」です。こちらがそうならあちらもそう。そういう、人というものの「人間臭い部分」をしっかりと認めた上から、「説明」というものを考えていかないといけない、ということでしょうね。
ならばそれは、「人間臭い人間」の観察をよくしている人ほど「説明力」を所持している、ということになります。いわゆる、「賢いから話が上手い」「馬鹿だから話が下手」というのではなく、言葉や人間についてどれだけ気にかけながら「場数を踏んできたか」という話になってくる…と。
運動において地道な筋力トレーニングを積むことが大事であるように、「話す」のトレーニングを地道に積んでゆくことで、なんなく天才などというものは凌駕出来る、という話で。
人は、単なる石木のような物質と違って、「情」を持っています。その行動のかなりの部分が「情」を介して動くものです。誰でも他者から情を寄せてもらえば、とても嬉しい気持ちになります。だから、「自分がされて嬉しいことを相手にもする」。…結局のところ、それしか無いんですね。そこが全ての基盤になるのでしょう。
しかし、単純に「年齢」とか「居住地」とかを考えても、若者にとって「されて嬉しいこと」と老人にとって「されて嬉しいこと」は違いますし、南国の者にとって「されて嬉しいこと」と北国の者にとってのそれは違います。違って当たり前ですよね。
だから、そこにあるのは「自分がその年齢だったら、その居住地に住んでいたら、何をされて嬉しいか」、そういう想像、推理推察になるわけです。
実際は自分の思慮だけでは思い当たらないこともあります。だから情報を他に集めたり、その人自身と話したりして十分に相手の土俵についての情報を収拾したり観察したりすることが重要です。そこまでし、そこから推察した「されて嬉しいこと」を行うから、相手は情を通わせてくれる…そういうわけですよね。
こうした観察や情報収集(相手をよく見るということ)が、浅かったり的外れていたり、あるいはそれを怠っていたなら、どんなに「気持ち」が有ったとしても、説明力としてはふるわないんですね。逆に不快がられたり有り難迷惑がられても、仕方なくなります。
でも、そうして沿うことは大事だけれど、根の無いまま沿っては説明力はありません。「自分」が無いまま相手の意に沿っても、それは要するに「むやみに若者に媚びる年寄り」で「年寄りに不自然に媚び寄る若者」でしかない…つまり地に足がついていない姿勢になってしまうのです。
そういう不自然な体勢にこちらがなることは、誰も望んでいません。逆の立場に置き換えれば、妙に回り持ったような不自然な体勢をされてまでこちらに気を使われても、余計に不愉快に感じて距離を置きたくなりますよね。
人は誰でも「相手の自然な立ち位置から来るアプローチ」を待っています。…南国の人が一生懸命北国の人の立場に立って考え動いてくれるもてなし(逆も然り)だからこそ、心に響く。自分をしっかり持っていながら身軽に自分の土俵を降り、相手の土俵まで出向き、しかし領域を侵すことなく相手の意に添った行為を行う。…それが相手の情に触れる(説明力となる)と、言えるのでしょう。
あと一つ追記として紹介しておきたい事柄を2つ。
自分の知人ならその人がどのような土俵を持っているのかを、いくらか予想して説明も出来ますが、初めて会った人であっても、短時間に幾つかの事柄から「相手の土俵を推察」して動いてゆくことが、とても大切だ…ということです。そうした「ひらめき」を、訓練していくことが大事ですね。
それと、旧知の…友人であればある程“無礼講”と「マナー」を省いてしまったりすることがある…気をつけなければいけないことです。友人だから頼みごとが出来ます。そして友人だからその頼みに応えようと思うものです。でもその比重を失するような貸し借りは、ダメ。 「友人だから受け入れてくれて当然」と来られると、誰でも白けます。
…このバランスがいかに難しいことか…ですよね。このバランスを壊さない工夫が出来てこそ、友人を持つことが出来るし、友情を保つことが出来る。
これもまたいかに「場数」で訓練を積んできたかという話になるのでしょう。
|