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学校とは…
著者は元公立高校長をされたり塾の先生をされたりしながら、深く学校や教育に関わってこられた方だそうです。なんだか穏やかじゃない題名に興味を惹かれて(天邪鬼?)読んでみました。
人間は、自分に自信が無くなると、周囲に対しての期待がドン!と増えるんだという話を何処だかで読んだんですが、たぶん世の中のお父さんお母さんに、子供を育てて子供と切り結んで行く自信が減ってくる…そうするとドンドンと「学校」に対する期待が膨らむんだと思うんですね。
ところが学校は只の学校ですから、親の膨らんだ部分の膨大な期待に応えることは出来ないわけで、そうすると「なんだこりゃ学校けしからん」…となる。
「エライこっちゃ学校は子供を守ってくれない、どうしよう」って話はそこから来たりもするかしらとも思いながら、しかし改めて等身大の「学校」の姿をきちんと把握し直すことで、親達が出来ること、すべきことといった親の等身大の姿も見えてくる気がいたしました。どちらかというと、そちらを見直す面も兼ね、考えてみたら良いのではと思いました。
学校というのは「知識」を教える場です。現代社会は、知識が先行している時代だと言えると思うのですが、だから学校で起こっている事は、必ずしも「学校だけで起こっていること」ではなく、むしろ社会の縮図的に映し出ていたりするんじゃないかと。そのように捉え考えるとよいのではないかと思います。
学校は、《みんな同じ》といった「横並びの価値観」に偏りがちになっているところも、あります。「みんな良い子」とか「みんな出来る」とかいうわけで、時々「手を繋いで横並びで走る運動会」とか、男女平等教育が行き過ぎて出てしまったりしている話も、耳に入ってきますよね。 でもこれも学校に限らず社会全体がこの傾向気味かもですよね。
実際は、人間は《みんな同じ》では有りません。性も違えば財も違い能力も違えば容姿も違う。置かれている状況は全員違います。だから現実と対した時、ズレが生じます。そのズレ…《みんな同じ》にぶつかると、「怒り」が湧き上がってしまったりするわけですが。
「制服」や「標準服」などに代表されるように、学校は「あるモデルを勝手に作り上げ」そこから逸脱するものを「直して《みんな同じ》にする」ように指導していく“気”があるのだ…という話が出てきていました。なんだか妙に納得してしまった私ですが、これも学校に限らず親達も、社会も、現代人はそうしがちな傾向がありますね。
「モデル像」という型に似せて、似てない部分を「直して」ゆく指導…それは、「長所を誉める」より「短所を指摘して叱る」指導になりがちになり、下手をすると「一つ叱って三つほめる」どころか「三つただ叱る」になりかねない場合も出てくる危険性も、抱えています。(そして実際誉めるより叱るほうが指導としては楽だ…と著者は言っていました)
また、《みんな同じ》というのは「横並び上に居ればいい」という考えですから、「他の子がしてなければ自分もしなくて良い」し、「他の子がしていれば自分もして良い(時には脅迫的に「しなくちゃ」)」だったりします。
この理屈は、「皆がしているからお手伝いをしよう」「皆がしているから優しくしよう」「皆がしていないからお手伝いはしないで良い」「皆がしていないから優しくしないで良い」で。そこには、揺るがない基軸がありません。いつも多数決で多いほうが正しいになりますから、道徳的に許されない事でも、数が勝れば正しい事になってしまいます。おっかないことですよね。これはいじめの問題にも密接に絡んでいきますよね。
いじめは、大概いじめられる子供は少数で、いじめている子供の数のほうが多いです。そして誰でも、いざとなればどんなに愚かでも我が子が可愛いのが人情です。被害側と加害側の利害は真っ向対立し、加害側から謝罪の言葉を引き出すのさえ容易でありません。(多くのいじめ裁判の結果がそれを物語っていますよね)
この《みんな同じ》に端を発した「数の力」の理屈の前には、学校も教師も何も出来なくなってしまうのが残念ながら現状のようで、だから、よほど事態が深刻にならない限り「先生の腰は引きっぱなしであまりアテにならない」と見てよいようです。(それを見越した考えをしておくことが大切)
子供というのは基本的にいじめに対し「親にも話したがらなく、できれば自分だけで解決したい」と思っているもので、とくに中学生などは自立の芽生えもあり、自己主張も増し、親や教師の言うことを素直に聞けない頃でも有りますから、そういう子供の複雑な心理を、理解して臨まなくてはいけません。
子供が相談してきた時には「“その心理的抵抗”を乗り越えてここに来たのだ」と重く受けとめ、迷わず俊敏な行動を取る必要があるし、自分から話さなくても、<<子供の持ち物がなくなる、体を親に見られるのを嫌がるようになる、腹痛や頭痛などが多くなる、必要以上にお金を欲しがるようになる、学校に行くのを嫌がる>>段階が現れれば、子供とよく話し合う…ことが大切です。
この時、「いざとなれば自分の親はどんなことをしても自分を守ってくれる」という全幅の信頼を子供が抱けているか、親としてそのように関われているかが大事でして、普段から子供に「親に話しても仕方ない」と思われているようではだめ。抑止は、「日頃の親子間の交流」というか「信頼」の力です。ということは、「親と教師間の日頃の交流を通した信頼の力」、これが増すような関わり方…も、大切かもしれません。
学校と勉強についての関係はどうでしょうか。学校では「学業成績を軸にした人間評価」が先行している時もあります。これもまた学校に限らず社会においても、親ですら「勉強が出来ない=ろくな者じゃない」と結びつける傾向がありますよね。またこれに嫉妬心が絡めば「勉強が出来る奴=性格が悪い」などとなる場合もあります。でもどちらにしろこの発言は差別的な言い様です。
このように「人間性」が絡んでくるのは、たぶん脳化した頭でっかちの社会の特性でしょうが、それが勉強の仕方へも実は影響を及ぼしていて、「詰め込み教育や暗記型教育はいけない」(原理が《わかる》こと、自分で気付き、考えることこそ大事)などの語によく出てきます。でも基本のルール(勉強)を覚えてなければ、原理を把握するのは出来ない事で、それはとても高等な技術です。(応用問題ですね)
まずは「やり方」をルールとしておぼえて、ドリルを沢山やる。やっているうちにその意味も次第についてわかってくる。とにかく「《わかる》ことの前に《できる》ことを多く経験させ伸ばしてゆくことが重要だ」と著者は言います。
それは一般の生活習慣等の躾でも同じですよね。実際、《できる》喜びが次の取組みへの何よりの活力になる。《できる》その喜びが、その子供自身を、そして成績も伸ばしてゆく。やりかたを《おぼえ》、《できる》ようにする。自信がみなぎりますよね。
学校へ入学して毎日登校して勉学するのは、一体<<誰の為、何の為>>でしょうか。自信を持って「自らの為に」と返答出来るようなパワーを持たせてやることが、親の役割かもしれません。人生には様々な壁がありますが、人はそこを自身の意思と意欲で集中し、そのパワーで高い壁を超えていきます。 <<誰の為、何の為>>が「他人の為」では、苦しいですね。息切れもするでしょう。
「自分の為に自分の意思で行くのだ」という事が、何よりも親が子にしてやれる“社会への心構え”の手渡しかもしれません。
本題とは、日頃の人間関係や信頼関係の結び方…しっかり“その人(親であり、子であり、教師であり)”を見つめ、相手に誠実に、そういう関係を積んでいるか、話し合えているか、積み続けているか、…かもしれませんね。
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