Q&A こころの子育て
[誕生から思春期までの48章]
河合隼雄 朝日新聞社 初版1999 (1300円)


人間の「育ち」。

人間という生物の「生」の過程を、見せてくれる本だと思います。大概育児本というのは0歳〜幼児期が主で、その後は惰性的に急ぎ足で説明されているものが多いですが、(実際のところ本当に惰性でゆくみたいですけど) その前の経験が次の段階でどう生きてくるかとか、次の段階でこう生きるためには前の段階で何が大切なのかとか、そういったことがよくわかる内容の本だと思いました。現代の親達は大概、先が見えず不安な気持ちで育児していますから(私も)、助けにとてもなってくれると思います。
著者は専門家を「一緒に考えて一緒に答えを見つけてくれる人」と思って、気がね無く利用して話し合いながら育むのがいいと提案しています。誰かに客観的に話を聞いてもらうことの力…ですね。

現代の親達は「子供の親」を生きながら同時に「自分の“自我”や“個性”を両立しする」という大切な問題を抱えているので、時に子供が自分の「自我」や「個性」を「壊しにかかってくる」ような錯覚から恐怖を抱き、自衛に「子供を早く自立させる」を選び、子供を没個性的な「パターン」に入てしまう事があります。
生物は、土から生まれ土に還ってゆくという本来「土」とつながりが強いもので、子供は「大地に抱かれ」というような「お母さんの土」に十分に包まれ一体感を得る時期が必要で、それが後に育まれる「自我」や「個性」に直結するんですね。(土に飲み込み過ぎると「腐らせる」とはまた言い得て妙)

「どこまで甘えさせたらいいのか」と、親は迷います。そこは子供が一人行動をする時の目安、判断の基準の手渡しだから「なんでもかんでも許す」のはダメですが、でも本来「〜させてやる」とは相手に自分が「何かしてやろう」という押し付けでもあります…。
「押し付け」でなく「なんでもかんでも許す」でもなく…って一生懸命考え過ぎると、次第に育児はギクシャク…なんだか酷く大きな犠牲を強いられている気分になります。言動も不自然に。 子供は「自然」。呼応しましょうと。時に感情がワッと出ても良いのですよと。子供の時間に沿っていくことは、本当は大人自身が癒されていくこと…と。

真面目になると空想世界の理解が難くなって、「バカなこと言ってないで宿題なさい!」とか「なにボーっとしてるの!」とか言ってしまいがちです。親は至って真面目なんですが、それが子供の世界を叩き潰していることはとても多いと著者は言います。
でも、「物語」は人を支える力を持っていて、生活の中の清涼剤でもありますから、子供の生活の中に置いて欲しい。例えば家の中の見つからない探し物「小人のいたづら」と言えば喧嘩が減ります。子供はファンタジー世界の住人で、そこで「自分は強いんだ、正しいんだ」という自信も、育むんですね。

10歳は、子供の自立の「大きな節目」で、この頃「私とは何か」などと考え始めるようです。「自我体験」といって、「この世の中で『私』は一人なんだ」というのが解ってくる。
そうすると、凄くワクワクもしますが、凄く不安にもなって、だからこの時期、それまで一人で寝てた子が急に「怖い」と言い出だしたりするそうです。 子供はその不安をうまく言い表せないので「怖い」といった表現になるけれど、そういう時はちょっと冷やかしながらでも沿ってやれば、そのうちすぐに抜けるんですが、そこを突き放してしまうと、ダメなんですよと。 …「子供の事」になると大人は焦ってしまい、もっと長い目で見るべきこともつい「決まった型」を押しつけ、つい「○しなさい」とやってしまうんですね。でもそれは子供の人生を、誰もがやってる「最大公約数」に押し込もうとしていることで、「個性的に人生を生きること」の逆を教えていること…。

「人生を個性的に生きる」とは実際のところ、“ウソかホントか解らないこと(ファンタジー)に賭ける”ことで、「自動販売機に120円入れてもその分の缶ジュースは出てこないかもしれないし、何がどうなるかわからない」ものに投入することだと。 「でも僕はこれに120円入れたい!」という“賭け”。その、「何に」「どのぐらい賭けるか」→これが「個性」。その事後対応も、其々の人の「個性」ですね。 「絶対確実なことだけをする」というのは、「解っているところだけを生きる」ということで、そこには「個性」は無いんですね。
「個性的に生きる」って、ほんとにすごい大事業で、「個性のある人」っていうのは人生でそういうことを何べんもやって、いろいろ鍛えられてきた人なんですね。 人生の面白い所は、「何かに賭けている」ところに付随している…。だから、親が弱みや失敗をそのままに見せ、「弱みや失敗は怖くない」と子供に学習してもらう。(賭けられる心の育み?)

次の大きな節目は「思春期」。人は生まれてから死ぬまでに何度もシステムチェンジしながらゆきますが、この思春期の節目は特に「死と再生」というのが強く働いているようです。その時期を過ぎてしまえば皆「思い返すと恐ろしい」と思うような、まるで「死にたがっている」かのような行動を、その時期は平気でしたり出来たりするんですね。
鎌倉時代初期の名僧の明恵上人という方は、「十三歳にしてすでに老いたり」と言って自殺しようとしたそうです。「自分は今最高の状態になってるのに、そこから大人になるとは“もういっぺん一から始めなければならない”。そんならもうこの頂点で死のう」と。
この「パワー」の強い時期に、大人はしっかりと壁になってやることが大事なようです。

思春期の暴走や暴力は、ある一線を越えたら止めようがない時があって本人にも止められない。だから越える前に止めなくちゃならない。その役割が大人に科せられているんだと思います。でもそんな折、「規則」とか「常識」という壁の後ろに隠れて、見えないところからそれを盾にするやり方で制止しても子供はそれを破ります。破らないと相手の姿が見えないから…。解る気がします。
壁の前に立つ。そして「ここより先は絶対ダメ」といってじっと動かず動かない。動かないから子供は安心して壁にぶち当たって大人になっていくんですね。(それでも絶対逃げた方がいい時も有ります。本当に危ない時は徹底的に何もかも放り出して逃げる)

「見える壁となって動かず居る重要」と、その他に「見えないところに深く潜る重要」もあって、それが「絆」のようです。 絆は「ほだし」とも言って「しがらみ」と同義語で、短く直接的なものは「ダメ」とか「行っちゃイカン」という縛りになります。縛られると子供はもたれかかられて辛いので逃げようとし、親はそれに「絆が切れた」とか「子供に裏切られた」と言います。これは息が詰まります。 …「絆」は、糸を細く長くしてずっと深めていくのが理想的。お互いの関係の深いところを、なるべく遠く、それこそ「無限遠点」にまで持って行く。その点を介してつながっていれば、相手がどこか遠くへ行ったって大丈夫。一番深いところで繋がっているんですものね。(巣立ちですね)

人間は、「助け合う」とか「支え合う」とかいって、相互依存をしているんですね。親子間でもそうですが、一方的な方向にもたれかかるのではなく、相互にもたれ合って行くんですね。「自立している人」は、上手に相手を依存させ、自分も上手に相手に依存させてもらう人。やがてそういう伴侶を得、新しい家庭を築くのでしょう。
そして夫婦の間について著者は、「川の中に立っている二本の杭」みたなものだと言っています。夫婦の関係は「杭と杭の間に張る網」。相手として近くの杭を選んだ人は、網は張りやすいけど魚の収穫は少ない。遠くの杭を選んだ人は、網を張るのに苦労するけど張ってしまうと収穫は大きい。その時、「似た者同士で近くの杭との間で網を張る」か、「自分と違うところに魅力を感じて遠い杭との間に張る」かは、その人の運命としか言いようがなく…。(個性?)

「中年」というシステムチェンジ。
“印刷会社を設立し成功した人が中年になって「おれは本当は絵が描きたかったのだった」と思い出し絵を描き始める。しかもそれをすごく上等な絵と思って印刷して売ろうとする。でも誰も買わないから会社がそのために潰れそうになる。”←こういうことを「自己実現」というのだそうです。(ユング)(身につまされますな(^_^;))
社会的に誰が見ても評価されることをやっていることを「自我実現」といい、無意識というわけの解らない要素からワケのわからないことをすることを「自己実現」というそうです。ここには例の「死と再生」が働いていて、時には自我が築き上げたものを再生出来ないまでにも破壊するような強い力が働いているようです。
今の時代は社会規範が弱まっているので「何のために生きているのか」を皆が考えねばならなくなっていて、一人一人がまさに自我実現と自己実現が釣り合うところを探しながら生きなくてはいけない時代…なんですね。

冒頭の“母性を生きながら自分の「自我」や「個性」を両立して生きる”…ですが、著者は「子育てほど面白い自己実現はない」と言っています。不可解な存在(子供)をガッチリ受けとめ、それと共に生きる…たしかにまさに自己実現ですね…。
自己実現には犠牲がつきもので、子供に付き合うことは自分の時間を有る程度捨てることですが、この時「これは自己実現」という認識があれば、その犠牲に納得が出来、その犠牲の中にも楽しみを見出すことも出来る。でも認識がなければ腹の立つばかりです。
そして「自己実現」は、それができたから一生それでいける、というものでなく、毎日が「過程」であり「プロセス」。人は「その人になる」という過程を一生ずっと歩み続けていく。…その道が自己実現に通じているかどうかは、歩き始めてみないと解らないけれど…、どこをどう軌道修正するかしないか、ひとりひとり、みんな異なり、まさにそこを自分自身に聞きながら決めて生きていく。(個性であり自己実現ですね)