|
親は子の鏡。
毎日マスコミによって届けられる沢山の情報は、目を疑いたくなるほど悲惨な教育現場の現状や、家庭や地域での育児の話です。学校で家庭や地域で、授業が成り立たず、子供達は皆ゆとりもなく追いたてられ勉強をさせられていて、そしては虐待や犯罪が…。しかもそれらは皆、普段は普通の子供である…。
「でもそれらは本当に事実なのでしょうか」…ということを、多くの事例やデーターを持ち出してきて一つずつ検証し、「耳に入る情報は大層多く見えるけれど、実際はそんなに多くはないのです。それよりもそれにより親が自分の育児に自信を持てなくなることの弊害のほうが多いのです」ということを言っている本でした。
著者は東大卒で勉強好き…だからなのか切り口が科学的といいますか数学的といいますが、ポンポンと調子が良くて、それがまたうなづけたりもっともだと思えたりするものですから読んでいて段々痛快になってきて、気がついたら「なぁんだ現状そんなにビクビクする程悪くないんだ、それより今このままで利用して活かしていくことが出来る要素もまだまだあるんだ」とか、「成る程、こっち方向に向いていれば何もガタガタと小さし揺らぎに怯えることなんて無いのか」とか本当になんだかリラックス出来たというか、いや本当に自信やファイトも沸いて来たりして面白かったです。
まず数値的なところから、マスコミなどが大騒ぎする程にはそれらの件数は増えてはいないことが述べられています。それから時代的なものが人に及ぼす影響みたいなものに話の歩を進め、「フロイト」の時代の精神分析の客層が「罪の人」(自分にこだわり、自分の心の問題は自分にすべて責任がある…的)だったのが、現代では「コフート(アメリカの精神医)」の「悲劇の人」(周囲の反応にこだわり、何かうまくいかない時は、周囲が悪いのだと自分の悲劇を嘆く)に変化している…というところを掘り下げています。
「シゾフレ人間」と「メランコ人間」と著者は人間のパーソナリティを二つに分け、「自分の意思より人にどう思われるかのほうを気にする人間」を「シゾフレ人間」、「流行より自分の好みや意思を優先させるが頑張って駄目なら全て自分が悪いと落ち込む人間」を「メランコ人間」と呼んでいます。(世界中のどこの文明国でも二大精神病は分裂病と躁鬱病で…つまり人間が精神的におかしくなった時の行き着く果てが分裂病か精神病ということ…だとすれば正常人の心の世界も分裂病的であるか躁鬱病的であるかのどちらかに分けられるはずだという単純な分類)
学校のベテランの先生が、最近の子供の困惑することの一つに、人より秀でたい、勝ちたいという気持ちが薄いこと…「頑張れば凄くいいわよ」とか「頑張らないとマズいわよ」という励ましが通じないというのがあるそうです。
「シゾフレ人間」は幾ら成績が悪くてもそれが「皆と同じ」であるなら良しと思ってしまう型。(これがまた日本の子供達の成績が下がる一方の原因と著者は見ていて、今のレベルを何とか維持出来ているのは受験があるからなんとか子供達は勉強している…と読んでいるのに少し納得) 野心を持ちにくいと、理想が膨らみ、心にカリスマ的な神のような何物かを置こうとするといいます。確かに、音楽の世界に、ファッションの世界に、人々はカリスマをかなり求めている感じがしますよね。
皆と同じものを追い掛けて、皆と同じところで満足する「シゾフレ人間」を、本当の精神病の域に達しないように引き戻すには、「野心を持たすこと」…これは私の心に響きました。
そう、悔しい、勝ちたい、秀でたい、認められたいと、子供の心は願っていますよね…。
それなのに親の方がともすれば、そんなことより仲間の輪の中で「飛び出ず落ちこぼれず真中にいること」に安心したり、不穏な空気を感じると「皆仲良く」とばかりに先んじて子供等に手を握らせて手打ちをさせたがってしまう…。 つい先日娘がしでかす何かに対し、「そんなに熱くならなくても」とか「そんなに振舞ったら嫌われやしないか」とかやきもきしていた私です。…反省。
コフートは、人間の心は生まれながらにして「人に認められたい、褒められたい」という「野心のベクトル」と、「近くに理想の人を持とう」とする「理想のベクトル」の二つの方向性を持っているとしているそうです。
人間は、褒められたい。だから頑張れる。けれどいつもというわけにもいかず、時には“大丈夫よ”と抱きとめられたい。抱きとめてくれる人(理想の人)を持っていれば、それでまた精神的安定を取戻し、また褒められようと頑張る。この繰り返しらしいんですね。
ところが「野心のベクトル」も「理想のベクトル」も、自分の力だけで満たされるもので無く、どんなに頑張っても褒めてくれる人が居なければ野心のベクトルは満たされないし、安心感を得ようとして理想化(その人にとっての神様の役目)対象を探しても、「相手が引き受けてくれなければ満たされない」。(だから「悲劇の人」だと)
子供の理想のベクトルや野心のベクトルを、引き受けて相手の自己愛を満たしてやる…これが親のすることということになります。その際には「そこにある些細なものでも励ます」のが重要で、嘘や大袈裟で褒めても駄目で、本当のことでその子供が気がついていない良いこと…を映し出して見せてやる…長所を拡大する鏡になってやるといいということです。
そして鏡のもう一つの意味は、自分のしたことがいいことか悪いことか…「親がその行動の意味を子供に見せてやる」…こと。
鏡がないと自分の顔がわからないように、鏡になる人がいないと自分のやっていることの意味がわからない。「叱ること」も同で、悪いことをやって叱られなければ自分の行為が悪いことだとわからない。あるいは例えば子供が親をびっくりさせようと思って「ワッ」と突然出てきても、親が驚かないでニコニコしているのでは、子供はかえってみじめな気分になる。 …「相手が本当は何を望んでいるか…慰めて欲しいのか、活を入れて欲しいのか、褒めて欲しいのか、大丈夫という保証が欲しいのか」。鏡は、映すもののことを絶えず注目していないとその機能を果たさない。これは大人になってからの人間関係についても言える話ですね。…鏡に映らないことは、相手にされていないことであり、自己愛を傷つけられること。
またもう一つ、鏡は自分のきれいな部分、あるいは人に受け入れられる部分だけしか映さない…のではいけません。言ってはいけないこと、やってはいけないことはあるけど、考えてはいけないという禁止だけはできないんです。差別的なこと、卑猥なこと、攻撃的なこと、時に人間は考えてはいけないことも考えてしまう。これを無理に押し込めてしまうことが様々な心の病気の原因。ここは意外に親達がうっかり落としてしまいがちの部分かもしれないなと思いました。仲間や親友を作る際、秘密や本音を見せる技術はとても重要です。
子供の発言は確かに差別的。でも自分も本音ではそう思っているような場合には、「それはそう思うが、言うと世間では嫌われるから損だし、確かに言われた側の見になれば結構辛いものだ」と親の側も本音で伝え返す。子供も本音を出しやすい。「○○してはいけない」と禁止するより、「○○しては損だ」という情報として子供に伝える。そうすれば「親は子供のことを考えている」という事も伝わりやすい。
著者のいう「頭の良い人間」とは、充分な知識をもち、判断や推量の際にはメタ認知ができ、認知が感情に流されず、感情のコントロールや修正の為に上手に人に頼れる人。親の自信が子供を救う?
|