〜「五歳児の大人」と
そのまわりの人のための心理学〜
加藤諦三 PHP研究所 初版2000 (1250円)


心理的成長が五歳で止まった肉体的には三十歳の大人。

「五歳児の大人」とは、「生き辛い」という思いを常に抱えている者を指しています。
著者は早稲田大学教授で日本精神衛生学会理事で産業カウンセリング学会理事という凄い肩書きが一杯ついた方ですが、自分自身「五歳児の大人であった」そうです。
父親が五歳児の大人で、育てられた自分も五歳児の大人に育ち、日々「生き辛い」という思いを抱えて生きてきた自分自身の体験や経験が、狂しいほどにぎっしりこの本には詰められていました。

人は本当にしたいことが出来ない状態だと、イライラします。「五歳児の大人」は、本当にしたいことをしてこられず、逆にしたくないことをイヤイヤさせられ成長ししてきました。だからたとえ「社会的に望ましく正しいこと」をしていたとしてもイライラしているし、義務で動いているのでとても疲れています。それにイヤイヤにルールを守っているので、破る他人が絶対許せません。 「自分だけさせられて損」と感じてしまうし、もし、相手に譲ったとしても「物凄く高値の恩を売った気分」になります。 全て我慢で生きてきた人です。
だから満足する程何かをし遂げたこともない。なにもかも中途で諦め、何からも卒業できず足が洗えず、逆にいつまでも執着して、固執して、恨み妬み憎み、そして他人に冷たく厳しい…これが「五歳児の大人」の特徴です。

「多くの日本の親は五歳児の大人である」と著者は言います。
例えばアメリカでは両親は日本に比べて身勝手です。でもアメリカの子供は日本に比べて両親を大切にしますし尊敬もしています。それはアメリカの親が「自分のしたいことをして」「自分に満足して」育ってきているから。だから他者(子供)に優しくなれる。満足せず大人になった親は、子供に優しくなれず厳しく細かく接してしまうんですね。
(それ以外の親は満足の無さが自信の無さへと子供を放任にしてしまう)

厳しく細かく接していくと、子供はどう育っていくでしょうか。いつもルールを守らされ、ゆえ何事にも受動的で積極的になれない。満足感が心に無いので自信も少なく、その補完として自尊心を偏らせていきます。大人には「積極的に事を起こし、責任を取り、そして人を愛する能力」が求められます。でも五歳児の大人にはどれもなく、だから別の方法でそれを補完しようとします。一つは「周囲に依存しながら、身分は周囲のものより上、という生き方」…昨今そうした毛色の犯罪が増えている気がします。あと一つは「“あいつらが悪い”“みなから酷い目にあわされている”と責任転嫁を叫びながら現実を否定して被害者意識に立つ生き方」…。

五歳児の大人は、「誰も自分の気持ちを汲んでくれない」といつもイライラしています。
「イヤイヤでも我慢してこんなに頑張ってきた。そこを汲んで欲しい」と訴えています。
けれど世間はそんなことは認めません。三十歳には三十歳の責任を求めます。心理的五歳児がいくら必死に頑張ったとしても、怠け者と批判され、自分はダメな人間だ、冷たい人間だ、豊かな感情に恵まれなかった人間だと自分をさげすんで死にたくなるより無くなる…だから五歳児の大人は「生きることが辛い」のですね。

では何故、五歳児の大人となってしまったのでしょうか。本からは、「魔術的助け手」「近親相姦的願望」「確実性と防衛と愛情」「母なるものへの願望」「愛着人物」などの言葉が拾えます。これらは全て、小さい頃「満足いくまで甘える」ということをさせてもらえなかった、甘えることが出来なかった。「助けて」と言えなかった。だから甘え方を知らない、だから他人に上手く甘えられない。それでイライラしていつも怒らざるを得ない、でないと生きていられない…そこに行きついてゆくのです。

傷つきながらも怒ることを禁じられていた人々…。だから今、怒り過去に囚われる。
それは自然の、当然の流れと言えるでしょう。けれどそれでも、それでは生きるのにはやはり辛すぎる。何故なら怒りは、自分自身の身を痛めつける方に多く作用してしまうのですから…。
だから決断しなければいけない。過去に囚われて塩の柱となるか、過去を栄光化して現在に生きるかを。 「恨みを消すこと」「自分と向き合うこと」…それがこの辛い過去を礎と変える為の分岐。難しいからこそ偉大なこと。どちらを選択するかは自由…。
著者は、苦しかった自分の体験を基盤に、今苦しみの中に居る五歳児の大人へ、そして五歳児の大人に降りまわされ大変な思いをしている者へ、強くエールを送っています。