〜非行といじめの行動科学〜
  小田 晋 フレーベル館 初版1997 (1600円)


生物としてのヒトの生態から非行といじめの行動を科学する

天使や妖精のようなやさしさを見せていた幼子…そのままを維持すればいじめも非行も無縁? 人間存在はそんなに牧歌的ではなく…。人間の持つ攻撃性や性欲や所有欲は、大脳皮質に刷り込まれた文化(しつけ、教育、倫理、宗教および刑罰法規と、それを適用された経験など)によって抑制を「学ぶ」ことによってはじめて、他者から「そばにいても耐えられるぐらいの存在」になる。
もし、きちんとした文化が刷り込まれず、欲望を抑えることができなければ、その人間は他者にとってそばにいることさえ耐えがたい存在になってしまう。さらに、人間の場合は、他の動物のように「同じ種の間で殺し合わない」という攻撃抑制の仕組みが働かない。それはつまり、抑制の仕組みを後天的に叩き込まれなていない青少年は「野獣のような」という表現さえ、他の動物に失礼になるような存在になり得る…。それが生物としてのヒトの生態だということを、この本は記しています。

たとえば、教室で授業の妨害やいじめを繰り返すグループの頭目が、制止する教師の前に顔を突き出し「殴ってみろよ。俺が教育委員会か新聞に言いつければ、お前はクビだからな」と嘲笑、あるいはさらに教師の膝頭を蹴り上げるといった事態は、いくらも生じうる。それでも耐え忍ぶのが「真の教育者である」と言いきれるでしょうか。師弟関係においてそういう事態が生じたとすれば、傍観している児童生徒を含めてそのときすでに教育の場は崩壊している。…今、こういった場は皆無と言いきれるでしょうか。

ではその大切な攻撃抑制としての文化を子供達にいつ刷り込めば良いのでしょうか…。
ヒトの精神の脳の発達の順序を追って、適切な発達の時期に適切な課題のものを与えていくことが大切だと本は語っています。
1.乳児期における母親の無条件の愛。
 (これが根底にないと、次期のしつけなど社会性は育たない)
2.幼児期におけるしつけについての父母の協力。
 (しつけは、体に擦り込む働き掛けで、感性を通じて生活習慣を刷り込む)
3.幼児期〜少年期にかけての社会性、規範性の教え込みについての学校と父母の
 協力。(教える…というのは九九などのように「言葉」で頭に叩き込むこと)
4.思春期になったら干渉は減らし、自分で考えさせ、そのかわり自分の行動の結果には
 自分で直面させ、その責任を取らせる。(「そんなこと考えてる間に英単語のひとつも
 覚えなさい」などと言ってはいけない(^_^;))

そして「快・不快」感を活用し「誉める。まず出来たことから認める」というポジティブな「言葉の贈り物」が原則ということ。
これより早過ぎてもいけないし、これより遅すぎてもいけない。昨今勉強の課題に重点を置きすぎて急ぎすぎているし、また思春期の「自分で考える」が育たない例も多い…ということです。

こうした攻撃抑制にあたる文化の刷り込みの不足による問題の他に、現代社会が抱えている問題もあります。

まず、情報過多の今の社会は、人々に「自分の将来は無限に開かれている」と思わせてしまうという問題があります。だから適当な所で満足しよう…とは思いも、あきらめることも、出来なく。しかし否応無く自分の限界は見せ付けられるため、そこから人々は物凄い無力感を味わうハメになってしまいます。
そして、情報化社会では「価値観」が無限に多様化してしまうため、良きも悪しきも普遍化され、境界が限りなくあいまいになり、どれもこれも許容できる価値観のように思えてしまい、ともすれば善と悪の区別さえつきにくくなるのです。
この2つのことは、大人達自身にとっても、非常に厄介な問題です。しかしここでしっかりと大人達が機軸を定めないことには、「白黒2つの物の見方しかまだ対応しきれない」子供達の道徳観、尊法意識は一生に渡って崩壊してしまう…というのです。

また、「協調性」と「個性」という二律背反する価値観が社会にある点も問題です。
個性的であれば本来協調性には欠ける。個性とは、「明るくはきはきとしている」もだけれど、「引っ込み思案で泣きべそ」もであるというのに、後者は大概歓迎されない状況です。つまるところ現実には、「協調性が達成される方向でのみ都合の良い個性」しか尊重されない、という実に偏ったものでしかないのですね…。
「明るい個性」を出せる子は良い。でも出せない子供達はどうすればいいのでしょう…。結局仮面をかぶったように明るくふるまうか、押し黙って表情を動かさず心を知られないようにするかしか逃げ場がないんです。そして多くの子供達はそうしているんですよね。

更に、子供はいつも何か間違いをしでかしはしないかと、内心ドキドキしているものです。
それは子供達が失敗から教訓を学び取り育ち、少年期や思春期の挫折を踏み台にして、強靭な精神力が育まれることの現れでもあるのですが…。
しかし今は、なにより親が子供の失敗を極端に恐れている状態なのです。そのため子供達が挫折を経験することさえ許されなくなってしまっているのですよね。
偏差値教育は悪評まみれだけれどこれの悪い点は、偏差値という評価法そのものではなく、それは「十五の春は泣かせない」という「社会の利用の仕方」なのです。
自分で選んだわけでない、いやいや本人が納得せずその学校に通い続けるという状況では、自分に自信を持つことも、自分の選択に責任を持つこともできなくて当然です。
親や教師が「子供達が自分自身で選ぶ」ということのことの自由に目を向けようとしない、子供に選択の余地が与えられない社会…。これは子供達にとってこのうえもなく窮屈で理不尽極まりないことだということを、もっと考えなければいけない…。
人間が生きるうえで「選択」と「決断」がいかに大切か…。
選択と決断の自由こそが、人間の尊厳であると言い続けてきたのは、かつての実存主義の哲学者たちだそうです。今や実存主義など、古臭いと見向きもされないけれど、「人間とは何か」「生とは何か」という「人間の存在の根本」について問い掛けた哲学者たちの考え方に、現代人はもう一度目を向けてみてはどうか…と筆者は提唱されています。