1990年代モンゴルの政治と経済
村井宗行

*これは、「1990年代モンゴルの政治と経済ーー1990年代モンゴルをどのように評価するかーー」(『モンゴル研究』第18号、1999−2000年、モンゴル研究会、大阪、pp.53-62)の原稿で、1990年代のモンゴルについての筆者の見解が示されています。なお、同上誌とは完全に字句が一致するわけではありません。

1、はじめに
 1989年末、モンゴル民主化運動に端を発した現代モンゴル改革の動きは、10年を経過した。この10年間をモンゴルの歴史に位置づけるとすればどうなるか。それは進歩なのか退歩なのか。
 憲法が改正され、複数政党制による普遍選挙が実施された。その憲法によって、基本的人権、物質的財貨の私有、移動の自由、自由な経済活動が保証された(1992年)。単一的国際貿易が言葉の真の意味の国際貿易になった(1991年)。これらは進歩と言えるだろう。ところが、普通選挙により選ばれた国会議員(国家大ホラル代議員)は国民の人気がなく、時にはカジノ問題をめぐる収賄容疑で拘束され、1996年選挙後には政府首班(首相)が4回交代し、1998年には約5ヶ月間首班を指名できなかった。貧富の差が拡大し、ストライキが頻発している。地方から都市への人口移動が進行し、生活環境悪化が進んでいる。賄賂が横行し、犯罪率が上昇している。外国の粗悪な商品の流入や、外国人商人による地方牧民の畜産品原材料の安価な買いたたきがみられる。こうしたことは1990年代以前には見られなかった現象である。
 そこで、1990年代を歴史の中に位置づけ、今後の歩むべき道を探るのが本稿の目的である。

2、1990年の民主化運動の歴史的意義
 1989年12月に始まったモンゴル民主化運動は、年が明けて1990年には高揚を見せ、その後、いくつかの成果を勝ち取った。
 この運動は、1985年から開始されたソ連のペレストロイカの影響を強く受けていることは明らかであり、「革命の風化と執権党のマンモス政党化」による、「特権的階級の出現、イデオロギーの建前化と革命的エートスの喪失、党員の〈官僚〉化」(平凡社版 世界大百科事典、 「革命家」の項、田口 富久治執筆)に反対する都市に住む知識人中心の改革運動であった。
 それは、当初の集会で掲げられた要求からもうかがえた。毎日新聞の伝えるところによれば、1990年1月15日、「人権尊重の実現を」要求して、モンゴルで7000人集会がおこなわれた。(90.01.22 朝刊)。また、”С.Зоригийн Инээвхийлэл” (Л.Чойжилсvрэн, УлаанБаатар, 1998, т.12−14)によれば、1990年4月、集会を組織したモンゴル民主化運動は、民主同盟、民主党の要求として、@臨時議会の即時開催、A政治勢力の平等な権利の承認、B人民革命党中央委員会の政治権力からの排除と、モンゴル民主化運動、モンゴル民主党の活動の即時承認、Cこの三項目の要求貫徹のために、4月25日から全国的規模の集会を開くこと、などを掲げた。
 つまり、その目的は、政治的自由、経済活動の自由、人権の尊重、対等な国際関係、などの確立であった。
 その中で特に重要であると思われるのは、モンゴルの独立である。もちろん、それは、かつてアメリカの研究者たちが主張したような衛星国論からのものではなく、真の意味の自由独立である。つまり、他の国家、機関の意向、アドバイスに左右されることなく、自国の責任において自国のための政策を実行する、ということである。
 1990年以降、矢継ぎ早に改革が実行された。
 具体的にいえば、政治的には、複数政党制と大統領制を導入した。これらは一党独裁による単独政党の政治支配を廃止したものである。
 経済的には、国民の経済活動の全面的な自由と、国際貿易の自由を承認した。
 軍事的には、ソ連軍の撤兵を完了させ、国家安全保障会議(議長は大統領)を設立した(1991年)。
 法制的には(詳しくは、A Special Feature of Mongolia in 1990's from Aspects of Legislations)、pp51-59、『大阪千代田短期大学紀要』第26号、大阪千代田短期大学、1997年12月参照)、1980年代までの社会主義を継承した面が多い。労働法(1991年)における、労働者保護、モンゴル憲法(1992年)における、私的所有の制限、第一審における住民の参加、行政法(1993年)における、政府による企業諸活動の監視、経済調整、民法(1994年)における、私的所有と国家的所有の混在規定、財産の共有制規定、土地の国家的所有制規定、などがその例である。それに加えて、改革面として、労働法(1991年)における、労働の奨励、モンゴル憲法(1992年)における、移動の自由、外資法(1993年)における外資の非国有化、損害補償に対するモンゴル人と外国人と同等の待遇、モンゴル人雇用の義務づけ、民法(1994年)における、国家的所有の土地に対する国民の使用権規定、国有財産および地方公共団体財産法(1996年)における国有財産および国有財産委員会の権限規定、などがそれである。
 すなわちそれは、混合経済、市場経済の導入、開放経済、多党制、思想表現の自由、社会保障の拡充、教育の充実、市場原理の導入、などによって、1990年以前の限定的な政治経済関係を清算し、社会主義の継承と改革を行いつつ、真の意味の独立を目指したということである。

3、ビャンバスレン政権(1990−1992年)の性格
 経済混乱の最中、ビャンバスレン政権が成立した。ビャンバスレン自身は、最近では、「白髪の老人」として敬愛されているようであり(『アルディン・エルフ』1998.11.30 ”Буурал баавай буцаж ирлээ”参照)、その時々の事件に対して的確な論評をする政治家、経済学者であるが(『イル・トブチョー』、『アルディン・エルフ』、『ウヌードゥル』、”UB−POST”などの記事参照)、ビャンバスレン政権(1990年ー1992年)の性格は、ショック療法と称する、無策、無謀、破壊であった。当時、政府委員をしていたナムジムの証言によれば、「当時の政府首相だったД.ビャンバスレン、第一副首相で民族進歩党党首Д.ガンボルド、および民族進歩党、民主党、労働組合活動家、そして何人かの大臣たちは、政府が経済を調整する必要などなく、市場メカニズムに任せておけば、自然と経済が整うものだと考え、市場メカニズムが発展するにつれ、国家社会、経済的発展が容易に達成できるのだ、と脳天気に思い込み、1ー2年もあれば経済に対する補助手段を講じる必要がなくなると述べていた。」(『モンゴルの過去と現在』、T.ナムジム著、村井宗行訳、日本・モンゴル民族博物館、1998年、下巻、138ページ) もちろん、こうしたショック療法は社会主義諸国で広く用いられた方策であったのであって、ビャンバスレン政権にのみその責を負わせるわけにはいかない。
 だが、ビャンバスレンにはそれ以上に、食言や虚偽の政策があったという。ナムジムによれば、
 「モンゴル文化財当局は、観音菩薩像を鋳造することに関して、1990年以降、大統領と首相に援助を要請した。当時首相だったД.ビャンバスレンは100万米ドルを拠出する約束をしたが、実際はこの資金は拠出されなかった。モンゴル国民はこの食言に不満を抱いている。」(同上書、上巻、122ページ)。
 さらに、「最近、「イル・トブチョー」新聞1995年3月20ー31日第9号に掲載されたインタビュー記事の中で、Д.ビャンバスレンは、その『決定第20号』を発表した後、モンゴル駐留ソ連軍が、ソ連で鋳造されたわが国通貨をモンゴルの銀行の監視下からはずして、1990年から市中に流した、と述べている。だが、この証言は信憑性がない。もともと、ソ連軍の購入する生産品の規模は、モンゴル側が正式に管理し、生産品価格をモンゴル側が決めていた。このことは、モンゴルの銀行のトグルグ出納簿に記載されている。」(同上書、下巻、184ページ)、
 「Д.ビャンバスレン首相は、1991年末に、アイマグの行政長を招集し、あなたがたに7,000万ドルの資金を提供しよう、それで90の小規模工場を建設してほしい、それによって生産した収益が90億トグルグになるであろう、と演説した。このことは、当時のモンゴル中央紙に報道された。当時は、モンゴル政府は7,000万ドルの資金は所有していなかった。1990年初頭には、モンゴル中央銀行は1億4,000万ドルの資金のうち、1億ドル以上を国際為替取引の失敗によって失っていた。さらにまた、当時はそうした何十もの工場をアイマグですぐに建設する計画は全くなかった。90近くの工場の建設予定一覧表はそれぞれの関係省庁にはあったが、将来建設しようとしていただけであった。その上、約90の小規模工場、農場、サービス施設からの収益額が90億トグルグ近くになる、というのは算出根拠がまったくなく、そうした数字を首相が口にすることは、人々の批判の対象となった。」(同上書、下巻、195ページ)、
 「Д.ビャンバスレン首相が、1992年2月初旬、ソムの行政長たちと会見し、今年7月から乗用トラック生産を開始する、そうすればあなたがたに乗用車が支給できるようになる、と述べた。これはモンゴル政府機関紙である「アルディン・エルフ」新聞(1992年2月5日付)に掲載された。もしかりにそのように首相の言に従って4ー5ヶ月後にトラック生産を開始するためには、そのための建設、準備期間が必要であろう。ところが、当時のモンゴルで乗用トラック生産工場は一つもなかったし、現在でもそのような計画すらない。それのみならず、1995年末に、モンゴル国議会である国家大ホラルで審議された、『モンゴル国家(経済、社会)発展要綱』という、今後15ー20年つまり2010年までのモンゴルの経済社会発展戦略および方針には、トラック組立工場を建設するという構想はない。」(同上書、下巻、195−196ページ)
 「Д.ビャンバスレン首相は、当時モンゴルが1993年から石油を自国で採掘し、ガソリンや燃料を生産できると発表した。これも新聞に掲載された。当時は、モンゴルで石油鉱脈の探査作業が開始された時期であった。そして、石油探査、地質調査が完了し、鉱脈を探り当て、採掘、精製工業を建設するのには、少なくとも8ー10年かかるにもかかわらず、2年かそこらで石油を精製することができるというのは、実態から著しくかけ離れ過ぎている。」(同上書、下巻、196ページ)
  「Д.ビャンバスレンは、同年8月にアメリカに外遊し、モンゴルの発展と経済改革のプログラム、という3頁ほどの文書を、上に述べた国際通貨基金と世界銀行に提示したと思われる。その後、同年10月、世界銀行の代表団がモンゴルに来て、大蔵省と協議を行った時、代表団団長は、貴国首相Д.ビャンバスレン閣下が今夏アメリカに行き、モンゴルの経済発展と改革のプログラム、というこの文書を世銀に提供した、と述べて、3頁からなる文書を取り出して、モンゴルの大蔵大臣А.バザルフーに提示した。ところが、彼はその文書の存在を知らなかった。そこで、世界銀行の代表団は驚きあきれた様子だった。貴国政府のプログラムであるとして、首相が提示した文書を政府の主要閣僚の一人である大蔵大臣が知らないというのは不思議なことだ、モンゴル政府の計画や決定をまずどこで誰が作成し、どの時期に協議し、どこが承認し、どのように決定され、公式に承認されるかを知りたい、と質問してきた。この会談に著者も参加していて、このやりとりを聞いて、世界銀行の代表と同じく、不審に思った。これはいかにもビャンバスレンのやり方だな、と内心思ったものだ。」(同上書、下巻、196−197ページ)
  つまり、「1年10ヶ月間首相の座にあったД.ビャンバスレンの用いた手法や彼の性格は、国家を混乱に導いた。」(同上書、下巻、197ページ)
  ナムジムによれば、「Д.ビャンバスレンは全ての問題を慎重に検討することはなく、一人よがりで、他人の意見を聞き入れず、頑固な性格の持ち主」(同上書、下巻、196ページ)であって、「空約束や詐欺的な(行動をする)人物であった」(同上書、下巻、207ページ)とまで述べている。
  特に、バウチャー方式による所有分割(民営化)は欠陥の多いもので、失敗であった。国有財産委員会発行の文書 ”Background Information on Mongolian Privatization”(1998 State Property Committee, Government of Mongolia)によれば、1991年7月、バウチャー方式によって開始された国有財産所有分割(民営化)は、個々の職場の職員が職場の株を優先的に購入するのを認め、その結果、株式が分散して民営化の有効性を失わせたこと、民営化が経済混乱を生み出したこと、などを認めている。

4、ジャスライ政権(1992−1996年)の政策
 1992年の選挙で絶対多数の議席を獲得したモンゴル人民革命党は、ジャスライを政府首相に指名した。
 このジャスライ政権は、前政権による失政をただすために、国家による調整、漸進的私有化(=民営化)、経済の回復を政策の基礎に掲げた。
 ジャスライは、1992年、国家大ホラルでの答弁で、前政権の欠点(=経済への不介入)を正し、政治的調整を行って、経済を94年第三期までに立て直す(”ЖАСРАЙ ГУАЙ”、Ш.Цэрэнпил、Ц.Даваадорж、1996、УлаанБаатар、11−12頁)、と宣言した。そして、@国営(企業)を堅持し、政府の支援を行う、A私有制度に国家が介入しない、B価格の自由化を実質的に見直す、C税制を健全化する、という政策を採った(同上書、12ページ)。1993年には、外国為替自由化政策の実施を段階的に行ない(同上書、32ページ)、1994年には、@生産向上、資本投下のための環境を整えること、Aインフレ抑制、民生向上、地方の貧困家庭を援助し、仕事の創出をはかること、という政策をとった(同上書、45−46ページ)。また、ホルショー(牧民協同組合)の創設が、小経営牧民にとって必要であるとして、それを支援した(同上書、49−50ページ)。1994年には、カシミア原毛輸出の規制を強化した。そして、同年末に、基礎商品価格の自由化が物価値上がりを誘発したので、物価審議会を設立し(同上書、68ページ)、さらに、1995年には、社会秩序評議会を設立した(84ページ)。また、教員の給料を20%アップさせた(同上書、74ページ)。こうして、モンゴル経済は徐々に混迷から回復していった。もっとも、これには、銅およびカシミアの国際価格の値上がりの影響もあることは事実であった。すなわち、国際経済の動向が、モンゴル経済に直に影響を及ぼすという、経済基盤の脆弱性を持っていた。
 しかし、この時期は、腐敗の始まりの時期ともなった。それを示す事件が1994年5月中旬に起こったハンガーストライキであった。このハンガーストライキそれ自体は、ゴンチクドルジたち民主同盟の組織したものであって、夜間にはレストランから食事の差し入れのある、かなり欺瞞的なものであり、国民の支持はあまり得られなかった。しかし、その発端には、政府の腐敗があったことは否定できない(『朝日新聞』1994年4月22日)。
 すなわち、銀行融資は、コネやえこひいきなどのネポティズムが横行し、賄賂が経済活動の有力な手段となっていった。そもそも、所有分割(民営化)は、えこひいき、賄賂に基づく国有財産の簒奪、という「泥棒資本主義」的性格を帯びていたのである(これについては、銀行合併問題の項で後述)。

5、エンフサイハン・エルベクドルジ・ナランツァツラルト・アマルジャルガル民主同盟政権(1996−2000)の性格
 このように、1995年に経済混乱が底を打ち、上昇に転じていたモンゴル経済を背景に、自らの政治的地位に安住していたモンゴル人民革命党(それはかつての硬直化した社会主義官僚化の残滓でもあった)は、1996年の国政選挙で惨敗した。この原因の一つとして、民主同盟グループへのアメリカのてこ入れがあったといわれているが、その根本には、モンゴル社会の腐敗の進行があったのは明らかである。
 いずれにしろ、1996年の選挙で圧勝した民主同盟(モンゴル民族民主党とモンゴル社会民主党及び無所属からなる)は、エンフサイハンを首相に指名した。
 エンフサイハンは、1996年8月30日、国家大ホラルでの所信表明演説で、「我が政権の推進しようとする政策が国民への負担を増加させようとも、これを実施する 」(”Speech by Prime Minister M. Enkhsaikhan at the Session of the State Great Hural, August 30, 1996”)と述べて、その後、所有分割(民営化)を強行的に推進し(前述の国有財産委員会編集 Background Information on Mongolian Privatization 参照)、日用品価格の自由化政策を採用した。これは、経済活動を市場に任せ、自由な経済活動に対して政府は干渉せず、輸出振興をはかろうというものであった。
 その頂点に立つ象徴的な政策がゼロ関税政策(正確には関税払い戻し政策)である。これは、輸入品48品目に限り15%の関税を設定し、その他の品目については、 関税は廃止する制度である(『モンゴル・ビジネス・タイムズ(日本語版)電子ニュース』 1997年4月1日(火))。関税をゼロにすることで、国内に安価な外国製品を供給し、物資の豊富化をねらったものであった。それに対する批判として、それは国内産業を崩壊させるものであり、あわせて国家予算歳入欠陥の原因となり、その結果、社会資本への配分の割合が低下し、国民生活に重大な影響が現れるであろう、という意見があった(『モンゴル・ビジネス・タイムズ(日本語版)電子ニュース』 1997年4月7日(月))。 不幸にも、こうした後者の批判が現実のものとなり、例えば、1999年時点で、安価な外国製ビールの輸入が国内製ビール生産に打撃となった(”θДРИЙН СОНИН” 1999年5月31日)。また、公務員や教員への給料不払いによる彼らのストライキが頻発している。例えば、ダルハン市公務員の給料(3,4月分)未払い、および、ウランバートル中学校教師の給料未払い(”THE MN-UB POST” 1999.5.11 No.019(156))などが報道されているが、こうした事実は全国至るところで起こっている。 
 その結果、エンフサイハン政権は、再び経済混乱を招いた。そのことは、1997年5月の大統領選挙の際の選挙運動及びその結果を通してもうかがえる。
 ”ЗАСГИЙН ГАЗРИЙН МЭДЭЭ”(No.80(772)、4月23日)掲載の、「誰の資金によって誰が音楽を奏でるか」(博士候補Б.Энхмандах、政治学者Т.Гантулга執筆)という記事によれば、1996年の選挙で、外国の資金が使われ、市場経済移行期のモンゴルに拝金主義がはびこっている。以前の選挙に比べて、お金の果たす役割が大きくなっている。1992−96年のジャスライ政権時代からお金の及ぼす影響が強くなった。1996年の国家大会議員選挙で、民主同盟は立候補者に100万トグルグを要求した。その結果、当選した議員の3分の1(24人)が社長かビジネスマンであった。1億トグルグを使った人物も3人いたという。そこでは、供応、買収が行われたという。それのみならず、ソム長に賄賂を贈った。だが、一人だけが罰金を科せられただけだった。小選挙区制となって、資金力のある物が金をばらまいて、選挙民に空約束した。それが民主同盟に対する信頼を損なわせた。アメリカの「エイモン(Амон)基金」が民主同盟に3150万トグルグ相当のドル、「コンラッド・アデナーワー(Конрад Аденур)基金」がモンゴル民主運動に15万ドルを与えたという。憲法に違反するこうした外国の干渉によって国政が左右された。お金で人を指示することは道理に合わないことをモンゴル人は認識するべきである。上の例からみて1996年の国家大会議は解散するべきである。金権の民主同盟に拝金主義を監視することはできない。」
 そして、”АРДЫН ЭРХ”(No88(1566)、 4月23日)には、 評論家による三候補者の公約に対する評価を掲載し、その中で、政府の経済政策は誤っている、特に現在の政権がそうである、特に、価格自由化、輸入政策の無策、輸入制限の撤廃がそうである(С.デンベレル)。さらに、”АРДЫН ЭРХ”(No89(1567)、4月24日)には、老人の訴えとして、生活の困難は指導者の失政である、という声を紹介している。
 同じく”АРДЫН ЭРХ”(No95(1575)、5月3日)によると、民主同盟は1996年の選挙前は批判的だったのが、選挙後は批判を口にしないようになった。地方の人はネグデルの力で、泥や虱から離れ、食べるものが手に入り、仕事ができ、道路ができた。しかし、現在はそのような政策はどこへ行ってしまったのか。牧民の生活が極めて貧しくなっている。目をそむけたくなる状態だ。(牧民の)家畜、皮革、毛、柔毛を、だまし掠め取ろうとしてナイマーチン(=商人)がぶらついている。
 こうして、1998年、エンフサイハンは、首相を解任され、エルベクドルジと交代した。
 エルベクドルジ政権下で起こった事件が銀行合併問題である。この事件は国有財産の簒奪がその根本にあるが、1998年6月17日、「復興銀行合併問題調査のための作業部会」(11人の委員から構成)の報告書によると(”θНθθДθР”、1998.6.17)、政府は、1996年12月、国営の人民銀行とモンゴル保険銀行を、貯蓄銀行と復興銀行に改組した。復興銀行は資本金18億トグルグ、政府が86億トグルグを補助、大蔵省が2度、国立銀行が8度監査した。1998年度より急激に悪化した(大蔵省『復興銀行に講じるべき方策について(モンゴル語)』で指摘)。政府は1998年5月27日に協議し、大蔵省は1998年5月28日、第228号決定を出し、復興銀行をゴロムト銀行に合併させることにして、大蔵大臣とゴロムト銀行はその旨署名した。復興銀行経営陣には背任の疑いがあった。復興銀行合併問題の要点は、@政府役員による融資斡旋行為があった、Aいくつかの大会社が多額の貸付を受けた、B大蔵大臣による貸付停止命令が預金者の取り付け行為を誘発した、C負債を抱える大会社は、返済義務がなくなることを期待して、復興銀行の倒産を望んである、D復興銀行役員たちの資産乱費、E全貸付総額112億トグルグのうち、79億トグルグが不良債権とされるが、回収する方法はある。F国営復興銀行を私営銀行と合併させるのは適切ではなく、インフレを誘発する懸念がある。G政府および大蔵大臣の決定は違法である。その理由は、国有財産および地方公共団体財産法、民法に違反しており、また銀行法では、国立銀行は銀行の閉鎖を命令するとなっているが、政府がそれに先だって命令を出したからである、H事前の会計監査なしに行われた。結論として、1998年5月27日の政府第80号決定は不法である。
 すなわち、国営の復興銀行から、返済の意志なく、政府高官や国会議員の仲介によって、融資を引き出し、結果として、国有財産を着服してしまった一部のビジネスマン(彼らは国会議員を兼任していた)の活動を示す事件であった(”θНθθДθР”、1998.6.13日、には、不良債権名簿と、国会議長、首相を筆頭に、その仲介者の氏名が公表されている)。
 この問題を契機にして内閣不信任案が可決され、エルベクドルジ政権は崩壊し、ナランツァツラルト(ナランツァツラルト政権はエルデネト社疑惑によって崩壊した)、さらに、アマルジャルガル(1999年7月30日に首相に就任したアマルジャルガルは、その政策の第一に、積極的な外資導入を掲げ、アジア開発銀行からの融資要請を行っている。非常に危険である。”ЗVVНИЙ МЭДЭЭ” 1999.8.19)に交代し、政治的混乱が進行していった。

6、モンゴルを操るもの−IMF(国際通貨基金)、世界銀行、アジア開発銀行の政策と行動
 このように、モンゴルでは、市場経済化と称し、資本主義化を企て、所有分割(=民営化)にひた走り、銀行部門の改革に便乗して国有財産の簒奪を企て、外国資本の導入や、国家予算の均衡のための政府支出(=教育福祉予算カット)にこだわっている。これはどこからくるのか。
 その背景には、「集団的植民地主義」としての国際機関の動きがある。また、それに便乗して富の蓄積をはかろうとする一部の「ビジネスマン」の動きがある。
 モンゴルは、1991年、IMF(国際通貨基金)、アジア開発銀行、世界銀行に加盟し(IMFには1991年2月14日に加盟)、1993年には、ジャスライ政権がIMFとESAF(The Enhanced Structural Adjustment Facility 拡大構造調整ファシリティ)合意を行った。さらに、1997年には第2次ESAF合意が行われた。
 IMF関係資料は数多くあるが(その多くはインターネットのwebページからダウンロードすることができる)、そのうちの ”Finance & Development ”/ September 1997 pp.32-35 によれば、ESAF合意を行った34ヶ国のうち、モンゴルは、アルバニア、カンボジア、キルギスタン、ラオス、ベトナムとともに移行経済国に分類されている。これらSAF(構造調整ファシリティ)およびESAF調整プログラムの目的として、@貯蓄率の向上、A財政の安定化、B国際貿易の開放、C国家による調整の減少と市場への依拠、D財政支出の削減、E外部資本の導入、をあげている。特に、ESAFプランのそれは、@財政支出について、GDPの3%相当額を3年間でカットする、Aインフレを抑える、B社会構造改革を行い、特に銀行部門の改革を実施し、利子率を自由化する、C情報公開を行う、D経済成長、E輸出振興、であるとしている。
 また、”IMF SURVEY”, VOLUME 27, NUMBER 4, February 23, 1998, pp.63-64 によれば、1993年からモンゴルで実施されたESAFプランは、4080万SDR(特別引出権)を投じることとし、上述の6つの「目的」をそのまま引き写し、特に、移行経済国共通の目標として、@急速な安定化、A財政部門の強力な調整、B社会構造改革(国有部門の解体)を押しつけている。経済政治、風俗習慣、歴史の異なる「移行経済国」に同一のプランを押しつけている。これはまさに内政干渉であり、「集団的植民地主義」とでも言えよう。
 これを受け入れたモンゴルは、1996年2月21−22日、東京で開催されたモンゴル支援国会議で、「モンゴル政府とIMFは、3年間のESAFプログラムの目的達成のために努力している」(”THE RECENT ECONOMIC SITUATION OF MONGOLIA AND CHALLENGES FOR THE FUTURE ”、Tokyo Donors Meeting、February 21-22, 1996)、と特に述べなければならなかったのである。
 さらに、モンゴルとIMFは、1997年から2000年までの第二次ESAFプランに合意した。かのエンフサイハン政権が成立してから約1年して、1997年7月31日に発行された、”Press Release Number 97/36, FOR IMMEDIATE RELEASE”, July 31, 1997 (IMF) では、IMFはモンゴルに今後三年間(1997−2000年)で総額4500万ドルの融資を行うこととし、その条件として、@賃金・価格の自由化、A輸出入規制の緩和、B国営企業の民営化、C商業銀行制度の確立、D資本規制の緩和、E変動為替相場制の導入、を押しつけている。
 その結果、エンフサイハン政権によって、@「賃金・価格の自由化」が強行的に行われ、経済混乱を再び誘発し、A「輸出入規制の緩和」のモンゴル独自の創造的な政策と自画自賛した、ゼロ関税制度は国内産業に壊滅的な打撃を与え、国家予算歳入不足の主要な原因になり、ついには1999年にその政策見直しが行われ、廃止となった。B「国営企業の民営化」は今なお、国家安全保障上の理由などで論議を呼んでおり、国営百貨店従業員はストライキを打っている。C「商業銀行制度の確立」に便乗して、エルベクドルジ政権下の民主同盟は、復興銀行のゴロムト銀行への合併を策し、国有財産簒奪を画策したが、失敗した。ナランツァツラルトは、民営化が日程に上っているエルデネト社疑惑で(エルデネト社ロシア側持株取得をめぐる疑惑)辞職し、アマルジャルガルは、上述のように、D「資本規制の緩和」を約束し、積極的な外資導入と外部機関からの積極的な融資要請政策を掲げている(ちなみに彼はゼロ関税政策の強力な推進論者だった)。
 世界銀行のアジア版ともいうべきアジア開発銀行の姿勢も、基本的にIMFと共同歩調をとるものである。例えば、”Mongolia: a centrally planned economy in transition”というアジア開発銀行編集の著書では、私有化=民営化を全面的・無批判にに礼賛している。(59−60頁など)。
 こうして、モンゴルの政治経済が国際機関のアドバイス通りに行われ、押しつけられ、国民に重い負担を強いているのである。

7、歴史に適合したモンゴルの発展のために(あとがきにかえて)
 このように、モンゴルで1989年半ばから始まった、社会主義の肥大化・硬直化からの脱却=改革運動に端を発した民主化運動は、次第にゆがめられ、腐敗堕落していった(その象徴的な事件が1998年10月2日に起こったゾリク刺殺であったといえよう)。この根本には、拙速な資本主義化を求める国際機関の動きと、それに便乗しようとするモンゴル側の一部の活動がある。それによって、一般国民は経済苦境と精神荒廃に苦しむことになる。これは進歩ではなく退歩に他ならない。従って、ここから脱却する道は、市場経済化と称するが、実は「集団的植民地主義」化のおそれのある、資本主義の拙速化という外部機関の押しつけに安易に従うのではなく、今までの歴史的流れを継承しつつ、主要産業である遊牧的牧畜業に基礎をおく発展に努めること、これである。

1990年代年表

1989年・モンゴル民主化運動が広がった。交通労働組合が初めてストライキを打った。
・モンゴル民主化同盟、社会民主主義運動、進歩同盟が結成さ れた。これに引き続いて、1990年には60団体以上の結社が生まれた。
1990年3月・民主化を求めるデモ・集会が行われた。モンゴル人民革命党中央委員会政治局局員の解任を要求するハンストがスヘバートル広場で行われた。
・モンゴル人民革命党中央委員会臨時総会が開かれ、政治局局員が初めて国民の要求によって解任された。
1990年5月・モンゴル人民共和国人民大ホラルが開催され、内閣が総辞職した。それをうけ、モンゴルに大統領が選出され、多党制が承認された。
1990年6月・モンゴル人民大ホラル代議員を選ぶ自由民主選挙が行われ、モンゴル人民革命党候補者が84%の議席を獲得し、与党の地位を維持した。
1991年1月・政府が為替相場を2倍切り下げた。これは物価を2倍値上りさせたことと同じ。これにより、モノ不足、国民生活水準低下、経済混乱を招く原因となった。
1991−1992年・市場経済制度へ移行するために、所有分割、価格自由化・物価値上げ、国際貿易自由化などの措置を講じ始めた。しかし、この施策は間違った方法で行われたため、多くの否定的な現象が起こった。モンゴルの社会・経済混乱が進行していった。
1992年1月・モンゴルの新しい憲法が批准された。国名がモンゴル人民共和国からモンゴル国に改称された。
1992年6月・新憲法の規定にしたがって、最初の議会選挙が行われ、モンゴル人民革命党が91%の支持率で圧勝し、政権を獲得した。
1993年6月・大統領選挙が国民投票によって初めて行われ、当時の野党推薦候補で前職大統領だったП.オチルバトが選出された。
1996年6月・モンゴル国会であるモンゴル国家大ホラルの代議員選挙が行われ、野党であったモンゴル民主連合が65.7%の支持率で初めて勝利した。モンゴル人民革命党はモンゴル議会で初めて野党となった。
1996年9月・新政府は石油製品・石炭・電力価格を自由化し、70%近く値上げする決定を出した。これによって、基礎商品価格の値上り、その他の日用品・サービス料金価格の大幅な値上りを誘発し、国民生活に大きな影響を与えた。
1997年5月1日・新税制改革が実施された。ゼロ関税という世界でもまれな関税制度を実施。国内産業への影響が懸念された。
1997年5月19日・新憲法下で2回目の大統領選挙が行われ、人民革命党推薦候補Н.バガバンディ国家大ホラル議長が、民主連合推薦候補 П.オチルバト大統領を破って当選した。得票率約61%。
1998年4月22日・エンフサイハン民主連合政権総辞職。後任にエルベクドルジ国家大ホラル議長(民主連合代表)が首相に就任。
1998年5月27日・復興銀行(国営)とゴロムト銀行(私営)との合併を政府が発表した(政府第80号決定)。
1998年7月24日・内閣不信任案が国家大ホラルで可決され、Ц.エルベクドルジ内閣が総辞職した。
1998年12月9日・ジャンラブィン・ナランツァツラルト・ウランバートル市長(1996〜)が新首相に任命された。
1999年7月30日・ナランツァツラルト政権不信任案が可決し、内閣総辞職。Р.アマルジャルガルと交代した。
2000年7月2日・国家大ホラル(国会)議員選挙で、人民革命党が72議席獲得(全議席76議席中)。エンフバヤル政権成立。

(c)著作権所有 村井宗行

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