民主化運動はいつ始まりいつ終わったか
村井宗行

1.モンゴル民主化運動の始まり

 本稿は、最終的には、民主化運動の歴史的意義について究明するものであるが、ここではその前提として、民主化運動の時期区分を扱う。従って、民主化運動の内容については次稿に譲る。
 さて、『ウネン』紙、1990年1月19日号(「モンゴル民主化同盟について」)に、モンゴル民主化運動連絡評議会メンバーとして、С.ゾリグ(議長、モンゴル国立大学大学院生)、В.エンフトゥブシン(副議長、モンゴル国立大学実験員)、Ц.エルベグドルジ(『ウラーン・オド(赤い星)』紙記者)、С.アマルサナー(『フドゥルムル(労働)』紙記者、Л.バーサン(ガンダン寺ラマ僧)、Д.ニンジ(モンゴル新聞記者連盟職員)、Э.バト=ウール(科学アカデミー元職員)、Д.ソソルバラム(国立芸術劇場俳優)、Д.スフバータル国立教育大学学生)、をあげている。С.Зоригийн Инээвхийлэл『ゾリグの笑顔』(30-31頁)では、それに加えて、Г.ボシグト(平和連帯委員会職員)、Л.ニャムスレン(国立建築局職員)、Б.ビリグト(モンゴル通信社)、Д.エンフバータル(モンゴル通信社)をあげ、さらにВ.エンフボルド(タルフ・チヘル・コンビナート社社員)を加えて、「民主化運動の13人」といっている。(注1)(補注)
 これら「全員が35歳以下の若者たち」が、憲法で厳しく禁止された、集会結社の禁止を突き破って、立ち上がった。(注2)
 1989年12月10日(世界人権の日)のことであった。
 この民主化運動の開始時期については、誰も異論はないだろう。問題は、終わりの時期についてである。

2.1989年から始まり、現在も続いているか

 まず、民主同盟連合政権が民主化運動の結実であるという見方がある(例えば、ビャンマスレンなど)。(注3) この民主同盟連合政権は、私がかつて指摘したように(注4)、IMF・ESAFプラン追随による失政、経済混乱、汚職、ゾリグ暗殺事件によって、その存在意義の大半は失われた。これが民主化運動の結実であるとは決していえない。
 次に、民主化運動出身の政治家が現在もなお数多く存在するため、通常は、民主化運動は今もなお継続中であるように受け止められている。たとえば、「民主化運動の歴史」’Ардчилсан ХΘдΘлгΘΘн ΘрнΘсний Арван Жилд (Баримтын Товчоон)’ ”ΘДРИЙН СОНИН”(1999.12.04, 08, 09, 11)では、これが編纂された時点(2000年)まで民主化運動年表に掲載している。参考までに、ぞの全文を掲載しておく。(注5)
 また、そうした考えの延長線上にあって、1990年3月のハンスト参加の経験を持ち、後に民主同盟連合政権(1996−2000年)時代には、エルデネト社長に就任していた(人民革命党政権で解任)ドルリグジャブが主張するように(注6)、民主党が民主化運動の継承者であろうか。この民主党(第3次)は(注7)、ジンギス=ハーンの大モンゴル国建設にちなんで、2000年の12月6日に結成されたものである。この民主党結成は、いろいろ言われているが(行論上省略)事実上、翌年2001年7月に迫った大統領選挙対策の色彩が濃厚であった。そして、民主党推薦候補(ゴンチクドルジ)の大統領選挙敗北後、2001年9月23日から25日にかけて開催された民主党民族評議会で、大統領選挙総括が行われたが、党勢弱体化をおそれて、執行部の責任問題が回避され、前もって力説されていた「影の内閣」=「強力な野党の形成」の試みすら実行できず、失敗に終わった。(注8) これは、民主化運動への裏切りであると言ってもいい。まして、バーバルによる、「1999年以降では2001年にモンゴル経済がハイパー・インフレとなって再び経済混迷を深めた」、という民主党(第3次)ウランバートル市委員会報告は(注9)、事実に基づかない批判であるとして、モンゴル銀行総裁チョーローンバトの反論がなされていた。(注10)
 このように、民主党(第3次)は、民主化運動を継承する基盤が失われてしまっている。その意図も気概も感じられない。まして、「強力な野党」の展望もない。このことは、А.БААСАНДОРЖ論説「自己満足と自己利得をはかることは民主主義にとって有害」で指摘されているところでもある。(注11)
 だから、民主同盟連合政権によって民主化運動は死んだ、民主化の第二段階を進める、として、オヨン、ガンホヤグ、ホラン、ビレグサイハン、エルデネたちは、民族民主党から脱党し、民主党(第2次)を結成した(2000年1月23日)。この結党について、ビレグサイハンたちは、「モンゴルにおける民主主義を受け継ぎ、憲法を守り、社会制度を向上させ、社会倫理を取り戻す」ことをその目的としている、と言明していた。(注12) また、「民族民主党は賄賂を求めすぎる」とも述べて、非難していた。(注13)
 ただ、この民主化運動の再生を目指した人々は、その後分裂して、現在、ゾリグの妹C.オヨンを党首として、市民の意志党(2000年3月9日結党)に踏みとどまっているが、その支持基盤はやや脆弱である。例えば、2001年大統領選挙での市民の意志党推薦候補ダシニャムの得票率は、3.54%であった。ちなみに、人民革命党推薦候補バガバンディ58.13%、民主党(第3次)推薦候補ゴンチクドルジ36.53%だった。
 では、この「死んだ」民主化運動は、どの時点で運動の内部にその分裂の芽が生じたのか。その時点をもって、当初の民主化運動の終わりと考えるほうが、1990年代史を考える上で有益であろう。

3.1989年から1990年9月(国家小ホラル議長選挙における社会民主党ゴンチクドルジの「変節」)まで

 1990年7月の人民大ホラル選挙での人民革命党の勝利後、常設の国家小ホラル議長(副大統領を兼務した)選挙が、9月3日から11日に行われた。立候補者は、人民革命党からゴンガードルジ前閣僚会議議長(首相)、民主同盟からゾリグ連絡協議会議長、社会民主党からゴンチクドルジ党首がそれぞれ推薦された。第1回目の投票で、ゾリグとゴンチクドルジが残った。この間、民主同盟側は、立候補調整を行おうとし、幾度か社会民主党と折衝し、ゾリグ一本化を試みたが、ゴンチクドルジは応じなかった。この間のゴンチクドルジの主張は、自分が立候補を取り消せば、人民革命党側に有利になる、というものであった。これは、ある意味では、ゴンチクドルジの変節を示すものではなかったか。ゾリグが選挙後、言っているように、ゴンチクドルジは政党間の駆け引きに長けていたのである。(注14) そこで、そのまま投票が行われた。ゴンチクドルジは、ネグデル解体(1990年5月)によって、自己の権力喪失を危惧した地方出身人民大ホラル代議員(ネグデル長が大半を占めた)の支持を得て、当選した。これを契機にして、民主化運動が分裂していく兆候が現れた。
 この分裂が決定的になるのは、ゾリグによる1991年2月24日の共和党結成であった。ビレグサイハンによると、ゾリグによる共和党創設は、民主化運動内部で進行していた腐敗、汚職に対して、ゾリグが反対し、モンゴル民主同盟第2回大会で、新保守主義を導入しようとして果たさず、その結果、連絡評議会議長を辞任して、実行したものであった。(注15) だが、この民主化運動内での分裂を契機として、ゾリグを孤立化させる試みが進行していくのである。(注16)
 これに加えて、ビャンバスレン政権(1990-1992年)に、首席補佐官(副首相)としてД.ガンボルト、補佐官(副首相)としてД.ドルリグジャブが就任することによって、民主化運動はさらに分裂していく兆候を見せていく。(注17)
 また、興味深いことは、この間の事態の推移について、『民族民主党の歴史』は、ほとんど沈黙していることである。(注18) これは、ガンボルドの出身組織である、民族進歩党の意見を反映していると言っていいだろう。
 そもそも、ビャンバスレン連立政権は、ビャンバスレンが言うとおり、国家大ホラル選挙によって、人民革命党が約60%の得票率で勝利し、単独政権を形成すれば、新勢力が野党化し、社会の分裂をもたらす、と考えられた。また、当時の一般的雰囲気として、「民主同盟にも政治の一端を担わせるべき」(注19)、としていた。だが、このこと自体、多党制政治という、当初、民主化運動の掲げた要求に違背していた。(注20) その意味で、ゾリグが「議会では野党になる」(注21) と表明したのは、民主化運動の精神に忠実であったのである。
 もっとも、ビャンバスレン自身は、「私の考えを要約すれば、非従属、自由社会(こそ)が新たな発展の基礎である」、と述べているように(注22)、民主化運動の主張に親近感を抱いていたことは事実であった。ただ、その政治運営手法が、独断的、主観的であっただけである。(注23) このことが、ゾリグとビャンバスレンの近親性と差異性である。すなわち、ゾリグは原則調整型であり、ビャンバスレンは独断専行型であった、ということである。これについての詳細は次稿に譲る。

4.結論
 1989年12月9日に起こった民主化運動は、1990年9月の国家小ホラル議長選挙、ビャンバスレン政権への民主化運動側の参加、などによって変質してしまった。その変質の典型が民主同盟連合政権(1996-2000年)下での汚職の横行であった。
 最後に付言すると、モンゴル民主化運動は、清朝支配期に支配階級に対しての抵抗運動として行われた、「モンゴル牧民運動」の「革命的伝統」を継承する運動であった、と私は考えているが、それに関しては、次稿で詳述したい。

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(注)民主化運動資料・年表
’Ардчилсан ХΘдΘлгΘΘн ΘрнΘсний Арван Жилд (Баримтын Товчоон)’ ”ΘДРИЙН СОНИН”(1999.12.04, 08, 09, 11)より

1989年
  12月2−3日 第2回若手芸術家全国会議に参加した一部のグループは、経済改革、民主化を早める目的で、新しい組織を作ることを提起し、更に数回この問題を協議した結果、政治面での改革を促進するための綱領を作成し、それまで非公然だった、「新時代」グループ、「オルチロン」グループ、「時代の鏡」紙を発行していたグループ、「民族の進歩」、「若手進歩同盟」などの組織を合同して、「モンゴル民主同盟」を結成した。連絡評議会議長にС.ゾリグが選任された。
  12月10日 世界人権デーの日、モンゴル民主同盟は青年文化会館前広場で約200人が参加した集会を開き、13項目の要求を、モンゴル人民革命党中央委員会第8回総会、モンゴル人民共和国人民大ホラルに向けて発表した。これには、
А.モンゴル人民共和国憲法を修正すること(党による政府の活動の直接的指導を廃止し、多党制を導入すること、世界人権宣言に明記された権利を尊重し、擁護し、人民大ホラルを常設の議会にすること、民族の権益に関する問題を、その土地に居住する住民の意思によって決めること)
Б.改革の実行には以下の方策を即座に講じること。選挙制度を抜本的に改革し、人民大ホラル代議員選挙を、半年後の1990年前半に実施し、社会主義市場構想を作成し、全国民によって協議すること、銀行網を拡大し、それを閣僚会議による管理から脱却させ、人民大ホラルに活動報告する権利を持つ組織とすること、出版の権利自由を法的に確立すること、特権的給付を廃止すること。
В.モンゴル人民共和国における社会主義発展の道を総括し、以下の点を明らかにすること。Х.チョイバルサン、Ю.ツェデンバルの側近たちを暴露し、国民による協議の責務をもつ各階層の人々の委員会を組織すること、政治粛正者の名誉を回復させること、彼らに対し直接モンゴル人民革命党の誤りを認め、その家族への補償を行うこと、ネグデル運動を活発化させ、寺院の文物を破壊し、1956,1968年の、ハンガリー人民共和国、チェコスロバキア共和国で起こった事件を武力で弾圧したことを支持したことなどの行為に対して、モンゴル人民革命党が政治的総括を行うこと、世界人権デーを全国民の民主的な祝日として毎年祝うこと。
  12月28日 民主社会主義運動が組織された。
1990年
  1月19日 モンゴル・ジャーナリスト連盟が「ペレストロイカと出版」というテーマで組織した、読者とジャーナリストとの直接的な対話集会で、民主社会主義運動が組織されたことが宣言された。
ウランバートル市の民主社会主義運動執行部の場所で、モンゴル人民革命党政治局員代理、ウランバートル市党委員会第一書記Л.ラントー代表とする党・政府代表たちが、モンゴル民主同盟連絡評議会のメンバーと会い、1989年12月10日の要求書に対する見解を発表した。その会見の模様が全国にラジオ、テレビで放送された。
  1月21日 ウランバートル市の民主社会主義運動執行部は、街頭と広場での行進や集会の禁止に対する見解を発表した。
  2月3日 保安省を党、同盟にではなく、人民大ホラル、閣僚会議の直接的管理下に移すこと、また、人間の権利自由、平等、倫理を尊重することを求める要求書が、民主社会主義運動によって同省の大臣А.ジャムスランジャブに提出された。
  2月16日 新進歩運動、融和同盟が合併して、新進歩同盟が結成された。
  2月18日 モンゴル労働組合同盟文化会館で、モンゴル民主同盟第1回大会が開催され、政治(宣言)、法制改革、信教に関する、1911年の民族解放運動80周年記念を祝うことについての追加宣言が協議された。大会には、16アイマグ、3都市の支部の611代表、200以上のオブザーバーが参加した。外国人記者が約30人取材にきた。
大会の会期中に、最初の自由新聞「新しい鏡」新聞創刊号が配布された。
大会において、モンゴル民主党結成についての宣言が出された。
大会によって、モンゴル人民革命党中央委員会、人民大ホラル幹部会に対し、正式の要求書を提出することが決定された。この要求書の内容は、
・当局者である党中央委員会が直接任命した閣僚会議メンバーを解任し、人民大ホラルを解散すること。
・党中央委員会を解散し、無制限の支配権を放棄すること。
・人民特別評議会を組織すること。
・マルダイのウラン、エルデネトの銅、ザーマルの金、アスガトの銀鉱山を即時閉山にして、今後、全国民による協議に基づいて、法令を定めること、などであった。
  2月22日 国立中央図書館の南側に設置されていたИ.В.スターリン像を撤去した。(4メートルの高さをもつこの像は、ソ連の彫刻家トムスキーの設計によって造られ、1951年に設置された。)
  2月24日 モンゴル民主同盟、民主社会主義運動、新進歩同盟、モンゴル学生連盟の代表が合同会議を行い、共同宣言を出す決定をしたことは、民主化勢力の同盟が統一に向かう最初の一歩となった。
  2月28日 保安省、国防省の全構成員に向けて、「国民に対して武力行使はいかなる時もしないことを呼びかける」共同宣言が、モンゴル民主同盟、民主社会主義運動、新進歩同盟、モンゴル学生連盟によって出された。
  3月1日 「ウネン」新聞に、Г.ボシグトについて「離党した」というヘッドラインの論説文が掲載された。
  3月2日 モンゴル社会民主党の結成が宣言された。この日、ソ連の「イズベスチア」紙上に、ソ連の債務をもつ国の一覧が掲載され、その中に、モンゴル人民共和国が95億ルーブルの負債返済義務がある、とされていた。
  3月2−3日 モンゴル学生連盟第4回特別小会議が開かれ、「学生の権利の宣言」が承認され、毎年3月2日を「学生の権利の日」とすることを決議した。
  3月4日 モンゴル民主同盟、民主社会主義運動、新進歩同盟、МОХの合同集会が「勝利」映画館前広場で開催され、この集会によって、モンゴル人民革命党中央委員会、人民大ホラル幹部会に対し、2日以内に返答を迫る共同宣言を発表し、スフバートル広場にデモ行進し、政府官邸から出て来た人民大ホラル幹部会員、モンゴル労働組合連盟中央評議会議長Б.ロブサンツェレンに手渡した。(日曜日だった)。民主化勢力の共同宣言には、モンゴル人民革命党特別大会を、1990年3月に招集し、モンゴル人民革命党中央委員会の委員を解任し、党活動を刷新すること、国勢の全勢力を平等に加えた人民臨時大会を3月に招集すること、などの項目が入っていた。
  3月7日 14時から、Э.バト=ウール、Б.バトビレクト、Б.ガルサンドルジ、И.ジャブフラント、Б.バトツェンゲル、Г.ボシグト、Д.ドルリグジャブ、Д.ニンジ、Д.エンフバータルらのモンゴル民主同盟、モンゴル民主党の10名のメンバーは、スフバートル広場でハンガー・ストライキを宣言した。総勢33名がハンガー・ストライキに参加し、モンゴル人民革命党中央委員会政治局局員全員の解任を要求した。
  3月9日 19時、Д.ビャンバスレンを責任者とする党、政府代表団は、ハンガー・ストライキを宣言した人々の代表たちと会見し、それをテレビ・ラジオが中継した。両者が相互に譲歩した結果、、合意に至り、以下の諸点につき原則的に一致をみた。すなわち、
・政治局員を即時解任しない。この問題は、党中央委員会総会に諮り、決定すること、
・モンゴル人民革命党特別大会を4月に開催すること、
・政党法を人民大ホラルの次の大会で審議すること、
・モンゴル人民革命党が憲法によって規定された特権を放棄することについての提案を、人民大ホラル大会に提起すること、
・人民臨時大会を組織せず、人民大ホラル代議員に委任する信任に関して、全人民の意見を聞くこと、などの諸点であった。
  3月9日 夜、モンゴル人民革命党中央委員会書記長、モンゴル人民共和国人民大ホラル幹部会議長Ж.バトムンフは、全国民に向けてラジオ、テレビで演説し、
・党特別大会を招集する提案を、党中央委員会の現在の総会に行って協議すること、
・党総会で、党中央委員会政治局員の解任の提案をすべきであること、これは政治局の意見であること、
・現在の人民大ホラルの代議員を信任するか、しないかという問題に関して、労働者の意見を聞くべきであると考える、と述べた。
  夜22時、ハンガー・ストライキが中止された。
  3月11日 モンゴル民族進歩党が結成された。
  3月12日 モンゴル自由運動党が結成された。
  3月12−14日
  モンゴル人民革命党中央委員会第8回総会が開催され、政治局全員の解任と、党特別大会を4月10日に招集することを決定した。モンゴル人民革命党中央委員会書記長に、Г.オチルバトが選任された。
  3月21−23日
  人民大ホラル第8回大会が招集され、人民大ホラル幹部会議長にП.オチルバトが選任され、閣僚会議議長にШ.ゴンガードルジが任命された。
  3月28日 モンゴル牧民農民連盟第1回大会が開催された。
  3月29日 モンゴル自由運動党第1回大会が開催され、党首にХ.マームが選任された。
  3月31日 モンゴル社会民主党第1回大会が開催され、党首にБ.バトバヤルが選任された。
  4月1日 「ウネン」新聞に、政党法(案)が掲載された。
  4月4日 МХЗЭ特別大会が開催された。
  4月8日 モンゴル民主党第1回大会が開催され、政治評議会議長にЭ.バト=ウールが選任された。
  4月10日 モンゴル人民革命党特別大会が招集され、党中央委員会委員長にГ.オチルバトが選任された。
  4月15日 モンゴル民主同盟、民主社会主義運動、新進歩同盟、モンゴル民主党、モンゴル社会民主党、モンゴル民族進歩党の指導者たちは、議会選挙に共同して参加する目的をもつ民主勢力同盟を組織する協定に署名した。
  5月10日 人民大ホラル第9回大会が開催され、人民大ホラルが国権の最高機関であり、国家小ホラルが常設の立法機関であると決定された。
  5月13日 モンゴル民族進歩党第1回大会が開催され、党首にД.ガンボルドが選任された。
  5月13日 モンゴル緑の党第1回大会が開催され、党首にД.バサンドルジが選任された。
  5月16日 モンゴル人民革命党が最高裁判所に登録された。
  5月22日 モンゴル自由運動党が最高裁判所に登録された。
  5月24日 モンゴル民主党が最高裁判所に登録された。
  5月25日 モンゴル社会民主党が最高裁判所に登録された。
  5月26日 モンゴル緑の党が最高裁判所に登録された。
  7月1日 モンゴル宗教者民主党が結成された。
  7月22−29日
  最初の民主的な国政選挙が二段階で実施された。モンゴル人民革命党31、モンゴル民主党13、モンゴル民族進歩党3、モンゴル社会民主党3、がそれぞれ国家小ホラルに議席を獲得した。
  9月3−11日 人民大ホラル第1回大会が開催され、大統領にП.オチルバト、副大統領にР.ゴンチクドルジ、首相にД.ビャンバスレンが選出された。
  9月24−26日
  モンゴル人民共和国(国家)小ホラルは、新政府の構成について審議し、その構成が12省・委員会の16名からなる連合政権が成立した。
1991年
  6月7日 民営化(所有分割)法が承認された。
1992年
  2月13日 新しいモンゴル国憲法が批准された。
  6月30日 国家大ホラル議員選挙が実施され、モンゴル人民革命党71、民主勢力連合5が議席を獲得した。
1993年
  6月6日 大統領選挙が実施され、作家Л.トゥデブ、大統領П.オチルバトの間で争われ、58.6%の得票率でポンサルマーギーン・オチルバトがモンゴル国大統領に再選された。
1994年
  4月13日 14時45分に、Д.スフバートル広場で、モンゴル民主同盟議長Д.バトトルガたち10名以上が政府に対する公開質問状への回答を要求し、また政府の解散を要求して、ハンガー・ストライキを宣言した。ハンガー・ストライキは292時間続き、4月25日18時に中止された。
1995年
  8月28日 第二市場が初めて開設され、有価証券取引が開始された。
  9月7日 米大統領夫人ヒラリーがモンゴルを訪問した。
  9月21日 МИАТのAN−24型航空旅客機がフブスグル・アイマグのトゥーレン・ソム、バイシントの鞍部に墜落して、乗客乗員あわせて41人が死亡した。27歳のС.ウルジーバヤルさんだけが救出された。
1996年
  6月30日 国家大ホラル議員選挙が行われ、モンゴル民族民主党とモンゴル社会民主党の民主同盟連合が国家大ホラルの50議席を獲得し、初めて政権についた。モンゴル人民革命党25、モンゴル伝統統一党1だった。
  10月27日 モンゴル人の尊崇する菩薩像が作られ開眼した。
1997年
  2月22日 国家大ホラル第39号決議により、住宅の私有化法案が承認され、住宅が国民に無料で分割された。
  5月18日 モンゴル国大統領選挙が実施され、П.オチルバト、Н.バガバンディ、Ж.ゴンボジャブの三人が立候補し、Н.バガバンディが大統領に当選した。
  11月2日 モンゴル国大統領布告により、Ю.ツェデンバルの官職と名誉が回復した。
  12月4日 モンゴル国は、1998年1月1日より労働5日制に移行することになった。
1998年
  3月13日 モンゴル国家大ホラル議員С.ゴンチクが病死した。
  4月20日 国家大ホラル臨時国会が開催され、最初の民主同盟連合政権が総辞職した。
  4月23日 国家大ホラルは首相にツァヒアギーン・エルベクドルジを選任した。
  5月2日 米国務長官マデレン・オルブライトがモンゴルを公式訪問した。
  5月9日 国家大ホラル議員ミシギーン・チメドツェレンが死亡した。
  5月27日 МИАТのエルデネト=ザブハン間航空機Ю−12機が、フブスグル・アイマグ、ガルト・ソムのバイシント山に墜落し、28人が死亡した。
  7月24日 国家大ホラル通常国会で政府が更迭された。
  8月5日 閣議決定により、ロシア=モンゴル合弁のエルデネト鉱業会社社長Ш.オトゴンビレグが解任された。
  10月2日 モンゴル民主化運動の指導者、国家大ホラル議員、インフラ開発大臣サンジャースレンギーン・ゾリグが何者かに殺害され、国民に衝撃が走った。
  11月24日 モンゴル・ロシア合弁エルデネト社社長にダンビン・ドルリグジャブが就任した。
  12月9日 ジャンラブーン・ナランツァツラルトが首相に任命された。
1999年
  5月30日 韓国大統領金大中がモンゴルを公式訪問した。
  7月15日 中国国家主席江沢民がモンゴルを公式訪問した。
  7月22日 国家大ホラルはЖ.ナランツァツラルトを首相から罷免した。
  7月30日 国家大ホラルはР.アマルジャルガルを首相に任命した。
  10月17日 モンゴル国家大ホラル議員、詩人オチルバティン・バシバルバルが病死した。
  10月20日 国家大ホラル議員Д.バトトルガ、С.バトチョローン、Д.エンフバートルが有罪となり収監された。(作成・О.バトサイハン)

(注)

(注1)А.Чойжилсvрэн, С.Зоригийн Инээвхийлэл, Улаанбаатар, 1998『ゾリグの笑顔』30頁収録。なお、同書収録の「民主同盟は何を望んでいるか」(『ウネン』1990年1月20日号、31-34頁)も参照のこと。В.エンフボルドについては『モンゴル民主同盟の歴史』5頁参照。
(注2)1960年7月6日に承認された憲法(いわゆるツェデンバル憲法)では、国民の基本的権利が保障され、その中で、特に、第76条から第88条にかけて、国民の思想表現、結社の自由が保障されている(特に第87条)。だが、一方で、第89条において、国民の義務として、社会主義諸財産の尊重(第89条、а項)、社会主義的秩序の遵守(第89条、б項)、社会主義国際連帯の優先(第89条、д項)などを規定している。事実上は(歴史的、地政学的に)、後者の規定が全面に出され、集会結社の自由は大きく制限されていた。Д. Батаа, Монгол Ундсэн Хууиад, Тэдгээрт Орсон Нэмэлт ΘΘрчлΘлтYYд /1924-1992/, Улаанбаатар, 1998 参照
(注3)Д. Бянбасvрэн, ΘΘрийн Жавар, Улаанбаатар, 1996『夜明けの寒風』123頁に、「この(民主化運動の)過程は1996年(の民主同盟連合政権成立時)に完成するする」と言っている。この民主同盟連合政権は、私がかつて指摘したように(村井宗行「1990年代モンゴルの政治と経済」『モンゴル研究』第18号
(注4)村井宗行「1990年代モンゴルの政治と経済」『モンゴル研究』第18号
(注5)本稿末尾参照
(注6)”ΘДРИЙН СОНИН”2000.12.07で「10年間の国政の伝統を受け継ぐ」と述べている。
(注7)現在の民主党の言い方は別として、民主党はそれ以前に、1990年、2000年(後述)と二度結成されている。従って2000年に結成された民主党は第三次民主党となる。
(注8)この「強力な野党」というのは、民主化運動の一つの主張であった。例えば、そのことは資料としてあげた、「民主化運動の歴史」によっても明らかであろう。
(注9)つまり、民主同盟連合政権(1996-2000年)から続いたGDP上昇が政権交代によって低下に転じた、ということをバーバルは主張している。
(注10)”Зууны Мэдээ”2001.10.02
(注11)ΘНΘΘДΘР 2001.09.27
(注12)”ΘДРИЙН СОНИН” 2000.01.15、これと同趣旨のことは、ビレグサイハンのインタビューでも繰り返し述べらていた。”ΘДРИЙН СОНИН” 2000.01.19。なお、”ΘДРИЙН СОНИН” 2000.01.20 のモンゴルにおける政党史についての論説も参照のこと。
(注13)”ΘДРИЙН СОНИН” 2000.02.11、および”ΘДРИЙН СОНИН” 2000.01.24、参照
(注14)Д. Дожоодорж, Ардчилсан Хувьсгалын Удирдагчийг Хэн ХΘнΘΘсΘн Бэ, Улаанбаатар, 2000『誰がゾリグを殺したか』110頁
(注15) Ардчилсан Хувьсгалын Удирдагчийг Хэн ХΘнΘΘсΘн Бэ、137頁)
(注16)この間の事情は、 Ардчилсан Хувьсгалын Удирдагчийг Хэн ХΘнΘΘсΘн Бэ および、 Арван Халуун ΘдΘр、に詳しく述べられている。
(注17)ΘΘрийн Жавар には、社会民主党党首Б..バトバヤルの政権に参加することを、それより先、国家小ホラル議長にゴンチクドルジが就任したこととあわせて、民主化運動側は反対していた、と述べている。142頁
(注18)Х. Дашзэвэг, МАYН-ын Тvvхэн Тэмдэглэл, Улаанбаатар, 1998『民族民主党の歴史』122-123頁に言及されているだけである。
(注19)Ардчилсан Хувьсгалын Удирдагчийг Хэн ХΘнΘΘсΘн Бэ、80頁
(注20)ΘΘрийн Жавар、144頁
(注21)Арван Халуун ΘдΘр、22頁
(注22)ΘΘрийн Жавар、145頁
(注23)ナムジム『モンゴルの過去と現在』モンゴル民族博物館、兵庫、1998年、各所、村井前掲論文、参照)

(c) Muneyuki Murai 著作権所有

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22年後の「民主化運動の13人」
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