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国府台戦争 |
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< 状 況 > |
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| 460年程前、この国府台で2度の大戦争があった、 それぞれ敵味方千人以上の戦死者の しかばねがこの地に眠る。 第1回、天文7年(1538)10月、足利義明は里見義暁をはじめ房総勢一万余騎を率い、北条 氏綱の従える二万余騎と、この地で対陣した。 この時、江戸川を渡って進出した北条軍を 迎え戦ったが足利義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。 北条に対抗し、安房上総地方を侵略して勢力を拡大した里見氏は、千葉県北下総地方にも手 を伸ばして千葉、原、高城らを攻め、いずれは北条氏も破って関東の実権を握ろうと野望を いだいて茨城佐竹氏を通し上杉謙信とも手を結んだ。 その頃、小田原北条氏の勢力下に松戸大谷口城主高城氏、千葉氏、原氏であった。 第2回、永禄7年(1564)1月、先の合戦から26年後に里見義暁の子義弘は兵8千を従えて 国府台に出陣。 以下が2回目の合戦の模様です。 |
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<合戦のもよう>

矢切側、里見義弘を大将として8千騎。
これに対して江戸川柴又、小岩に北条側が
江戸城代家老遠山丹波守直景と葛西の富永
三郎右衛門尉を先陣として着陣した。
この時、小金大谷口城主高城氏も北条方に
加勢のため下矢切大堀外(今の矢切神社東
側)に陣を張り遠山軍を助けた。
遠山富永等は大将北条氏康、氏政父子の到
着を待たず、矢切の渡しを押し渡り国府台
から栗山矢切へかけての里見軍へ攻めた。

遠山軍に押された里見軍はいったん退却す
るかに見せかける、勢いにのった遠山軍が
大坂の途中まで攻め登った所を里見軍は一
挙に坂上から攻め落した。
この坂で落馬した富永三郎右衛門尉は折り
重なった里見軍に首を打たれた。
その場所は、現在の「野菊の墓の碑」の有
る西蓮寺の坂の辺。
遠山丹波守の首は、この坂下の坂川の手前
「カイカベ曲り目の内野」と云う所で16
歳の里見山之介に首を渡した。

この夜、戦勝の酒に酔いしれた里見軍の将
兵は、北条氏の大軍にはさみ打たれ散々の
大敗戦となり大将里見義弘は市川の須和田
から中山をへて安房に逃れ、その後は再起
することが無かった。
<里見公園は里見城の城跡>
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