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矢切の渡しの歴史は古く、元和2年(1616)幕府は利根川系河川の街道筋の重要な地点15箇所を定船場として指定、 それ以外の地点では河を渡る事を禁止(箱根の関所並に厳しかった)しました。 その1つが矢切の渡しで、この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸の農耕地へ渡るために利用された。 寛永8年(1631)武州金町松戸関町の文書に「利根川通芝叉村船渡川向矢切村」と記されている。 都内に残る唯一の渡し船で、今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復しています。 雨天・荒天時は休みますが松戸側の森に旗が立っていると運行している目印です。 対岸は戦国時代、小田原北条氏と安房の里見氏の一大合戦を交えた古戦場です。また伊藤左千夫の「野菊の墓」の舞台となり、 ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地としても有名です。
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